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【体験録】 軽いやり取りは重さを忘れるために  -2月編/02-

 特になんの変哲もなく平成三十一年の二月一日、金曜日を迎えた。指示された通り十五時半ごろに二月分の生活費を受給すべく赴いた。片道徒歩十五分、自転車で十分もかからない距離ならば、あとは寒さだけ乗り越えれば難もない。

 これが平成最後の二月の幕開けか、などとこの境遇を受けた自分におかしな感慨を覚える。

 窓口は確かに慌ただしく、活気や賑やかさとは違う騒々しさがあった。物々しいとまではいかないが、穏やかではないという様子である。少なくとも一月二十八、二十九日に見た光景とは違っていた。
 一人ずつしか応じられない狭い窓口ではなく、受給のための窓口が別に設けられていた。私はそちらへ促された。ジロリとこちらを見上げる者、奇異の目を向ける者やこちらを見ながらひそひそ声でやり取りされるのを通り過ぎて窓口担当に声を掛ける。

「すみませんが……」
 声掛けに対し、職員はただ黒い目をしてこちらを見て言った。
「かみは?」

 KAMI?

 担当の者は手のひらを上向きにしてこちらに差し出した。私はそれが表しているものについて「恐らく何かを提出しなければならない」と判断したがKAMIという言葉が頭の中でなかなか変換できなかった。

 髪、噛み、神、上……紙か。

 しかし何か持ってこいと言われた記憶がない。確かめねばなるまい。
「ああ、すみません。自分は初めてなのですが、何か必要でしたか」
「え? あ、そうだったんですね。失礼いたしました。お名前をお伺いしてよろしいですか? こちらへどうぞ」

 利用者など逐一記憶に刻んでいられないのだろう。その方が良い。気をおかしくする。

 場所を少しずらして私はその職員に自分の名前と担当者の名前と知っている範囲での所属名を告げた。職員は手早くメモをとり、少し待ってほしいと言いながらメモを見つめて離れた。
 ほどなくして見覚えのある担当者の顔が近づき、全く見知らぬ体躯の大きな男性がバインダーと封筒とメモを手にして忙しそうにやってきた。なんとも、手にしたそれが小さく見えるのか、大きいだけか。何事か書きこんでいる。書き終えると顔を上げ、口を利かずに目だけで「このヒト?」と促していた。

「あ、間違いないです。私が担当している方です」
 担当者が言うと、バインダーの人はうんうんと頷きながら再び何かを書き込み、それから封筒をこちらに手渡してきた。
「こちらが二月の受給分です。念のため金額と封筒に記載された額とをご確認ください」

 はいと返事をし、私は中に入っている金額と封筒に記載された額とに差異がないことを確認した。確かに一円の間違いもない。
 再びバインダーに何事かを書きこんだ。
「では私はこれで」
 どこまでも、なんというか壁のようなというか山のような人だった。何も言わず、ただ己のためにある。そんな雰囲気だ。

「はい、すみません。ありがとうございました」
 担当者がへこ、と頭を下げて去るのを受けて、とりあえずこちらもへこりと頭を下げておく。分からないが現金を扱う担当なのかもしれない。
 山が遠ざかってオフィスに紛れる様子を見送り、担当者がこちらを向いたタイミングで私は声をかけた。

「すみませんでした。必要書類があると知りませんで」
「いえ、あの、こちらこそ失念していたようで、すみません。でもこんな感じです」

 こんな感じかあ。

「もしなにかご不満があれば、あちらのようにご相談を受けています」
 言って“あちら”を手のひらで示した。

 難しい顔で訴える人、それを聞く職員。ソファで泣き崩れる背中、それを見下ろす職員ともう一人厳しい声を投げかける職員。不安そうな顔をした中学生の制服を着た子とそれに身を寄せる人。
 断片的に聞こえる会話は交錯している。

「無理ですよこれ以上は」「ありゃあ、ヒトじゃねえ、亡者だぜ」「お待たせしました、どうされました」「なんだいこれは? 馬鹿にしてるのか」「あなたが悪いでしょう、何もしてこなかったんだから」

 筒抜けだ。聞きたくて聞いているのではなく、聞こえてしまう。なぜ個室ではないのか? 記憶違いでなければ使われていなかったように思うが。修羅場を寄せ集めてプールにしたみたいだ。それは私の足元、くるぶしまで溜まっているような気がした。

 私は自分の不幸中の幸いを思った。ケガもないし病気もない。明日にでも働ける。

「えと、次は月曜日でしたよね」
 担当者は話と一緒に目を逸らせるかのようにして言った。私は手帳を鞄から取り出して確認する。

「そうですね」
 家庭訪問である。
「はい、では、来週」
 そうして用件は終わった。
 預かった金額はとても軽かった。

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