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【体験録】いつから、何を錯覚したのか-2月編/26-

 さて、まだ二月の話題は終わっていないので、急に『健康診断』と『心電図で不整脈と診断』の二つの出来事が突飛すぎたと思う。少し時間を巻き戻そう。

 二月十八日の週で六通の応募書類を郵送し、面談まで進むことが出来たのは三件。当然、この面談は翌週二十五日から始まる週に入った。私はスケジュール帳を書き込みながら、別件の予定もねじ込まなければならなかった。

 自己破産の方、他の銀行の口座と利用状況が分かる通帳を入手することである。

 まったく自分の管理不足というか、分かっていなかったとしか思えない。金銭管理について再考する良い機会であったと、前向きに捉える。
 トラブルが全く無かったわけではないが、まあまあ順調に事はすすんだ。いくらかの手数料を引かれたくらいだ。これも授業料だったと思い込むことにする。

 他、金額が足りなくて振り込みを待ってもらっている、家賃やボイストレーニングの支払いは三月一日に預かる生活扶助費から賄おう考えていた。口座からの振り込みになる。通帳に忘れずに記載しよう。

 ところで、三月一日に預かる生活扶助費は当初、銀行振り込みであった。窓口は混雑するため口座に振り込む形で支給することを進めている。だが自己破産によって債務整理が行われている以上、口座は使えない。

 私はこの件を担当者に話し、窓口払いに切り替えてもらった。二月の中旬ごろの話だ。

 白状すれば、把握しきれていなかったのだ。

 二月の最終週となる二十五日の週、三月一日は金曜日。就職のための面接を終え、急ぎで窓口に駆け込んだ。(駆け込みは危険です。マネしないようにお願いします。)

 面接を終えたが、既に私はこの会社に行きたいと決まっていたし、最後の面接日である三月一日より前にこの会社からも「ぜひ来てほしい」と回答を頂いている。気分はもう就職活動を終えて、就職後のキャリアについて考え始めていた。

 私は早速この報告を、生活保護費を受け取る際に担当者へ伝えた。

「ええっ、もう決まったんですか!」
 この担当者の嬉しそうな声は初めて聞いた。

「はい、なんとか。入社日は調整中ですが、早ければ来週月曜日。少なくとも三月中には入社します」
「ほんとですかぁ……良かったです。ほんとに早かったですね」

 ふにゃあ、と喜びの笑顔を向ける担当者に対し、やや突き刺さるような視線が私の視界の端を通り過ぎた。一線だけではない、いくつかの不快を訴える視線。
 だがさすがに担当者はお構いなしだ。慣れっこなのだろう。

「あ、じゃあ、じゃあ、あの、就職の届けとか、あるんですけど、えっと……待ってください」

 ふうと息をついて、担当者は一旦デスクの方へ引っ込んでいった。ちょうど、入れ違いのように就労サポーターがやってきて目が合う。

「あらあ、窓口で受け取りだったの?」
「はい、ちょっと自己破産の件で口座が使えなくて
 口座が使えない、と私はここで自分の口で言っている。

「そうなんですねえ。あれからどお? 就活の方は」
「はい、入社先を決めましたので窓口に来たついでにご報告に」
「ンまっ!? 早かったわねえ! 想像以上だわ。うんうん、やっぱり出来る人は出来るのよ! なんかこの人は違うと思ってたのよねえ」

 就労サポーターは声が大きい。不快の訴えを続ける視線は留まることを知らない。

「じゃあ、ハローワークの相談員にも連絡しとくわね! でもあなたからも挨拶に行った方がいいわよ。ハローワークでもなんか手続きとかあるみたいだから。失業給付の話もあったでしょう」
「ああ、そうですね。分かりました、ありがとうございます」

 そうだった。今回の就職は正社員として入社しているので、失業給付からの『再就職手当』がもらえる可能性が出てきた。しかしもちろん就職すること、入社することは通過点だ。手当を目当てにしないで、問題は継続することにある。

 就労サポーターはニコニコと上機嫌になって、本来の用事を済ませに個室へ向かった。その姿が個室に入り扉が閉まったころ、担当者が戻ってくる。

「あれ、就労サポーターさんが居た気がしたんですが」
「個室に向かわれました。その前に自分の就職が決まりましたとご報告させていただきましたが」
「そうですか。結構気にしておられたんですよ。良かった、直接お会いできたんですね」

 ありがたいことである。

 担当者は一枚の紙をこちらに寄こした。
「これが就職届です。ちょっと記入するところが多いんですが、全て埋めてから提出してください。詳細は、すみません。ちょっと私がこれから予定がありまして、後日改めてお伝えします」
「分かりました」

 そうやって慌ただしく、だが良い陽気が自分を覆っているような気がした。不快を訴える視線は相変わらずだったが、申し訳なくも私は事実を報告しただけである。

 預かった金額に問題がないことを確認し、私は直ちにATMへ走った。

 銀行振り込みで支払うあれこれを終えれば、一旦は開放感を満喫して帰宅することが出来る。ああ、何を食べよう。この日くらいは何か、外食でも総菜でも買ってよい気がする。

 ATMを前にして、私は浮かれていた。

 この少し前、自分で「口座は使えない」と言っていたことを完全に失念していた。ATMを使い、私の口座に入金する。その入金額で家賃の支払いをしようとした。

 お察しの通りである。振り込みは出来なかった。

 私は意味が分からず、何度か繰り返したものの結果は同じ。ATMの不具合ではもちろんない。じゃあ仕方ない、他の口座から振り込もうとして、口座に預けてある金額を引き出そうとした。

 引き出しも当然のようにできなかった。三月一日にして、大金がいきなり目の前で、いや存在はするのだが触れられないところに行ってしまった。

 三月は驚愕のスタートだった。

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