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「縁」に導かれて救われていく

※柄にもなくほんのちょっとスピリチュアルな話をします。苦手な方はご注意を。

この頃、鬱の傾向が重く、また実存の深い悩みに突き当たり、かなり精神が疲弊していました。

その中で「縁」という言葉に出会い直し、救われました。

皆さんは縁(えん)という言葉にどんな印象を持っていますか?

僕は明るいイメージを持っています。どこかの明るい未来に繋がる、その為の「関係」というイメージです。

関係と言ってもそれは、人間関係という狭い枠組みではありません。コップに水を注いで飲むこと、椅子に座ること、仕事や学校に行くこと、こうしてあなたが僕の記事を読まれていること。自分が行う全ての行為や、自分を取り巻く他の事物との関係全てを含んでいます。

さて、僕は何故この「縁」に救われたのでしょうか。

このところの僕は、強烈な運命論・決定論に苛まれていました。簡単に言うと、地球や宇宙の誕生から物事全ての未来は決定されていて、何をしようともその未来に全ての行為が収束していくという話です。

そんな事ありえない、と今では思いますし、仮にそうであったとしても、そんな話では自分で未来を切り開いていくという(尊い)主体性が損なわれてしまいます。

その苦悩の途中で「縁」と出会い直したのです。

この出会い直しも、不思議な事ですが縁と呼べる出会い方をしました。

僕はX(元:Twitter)のアカウント(以下、アカと略)を持っていますが、その以前には別の、今の「泡沫」と名乗っているものとは違うアカが有りました。それは絵に関係するもので、そのコミュニティで何人もの方と繋がり親しくしていました。

現在の「泡沫」アカでは以前の繋がりを引き継がずに、真新しく、関わる分野も別のものになっています。けれども、何故か以前に繋がっていた人とまた繋がりたくなり、極少数の方には事情を話して再度相互フォローの関係になりました。

先日、その相互フォローの一人にリプライを貰いました。近頃は中々接する機会が無く、その方の近況を追っていなかったので、そのリプライが大げさですが晴天の霹靂に感じました。

その会話の中で「縁」が出てきます。

リプライでの会話は特別なものではなく、言ってしまえば他愛ないものです。

会話の流れで相手の方が以前に、飲食店の店主から仏教の説教を教えてもらったという話を聞きました。「色(欲と苦悩)」と「縁(因果と未来)」という話です。

踏み込んで話をした訳ではありませんでしたが、この会話をしている事自体が全て縁の様に感じて、心の奥深くに縁という言葉が沁み込みました。

僕が以前のXアカでその方と出会っていなければ、そして一新したアカでも繋がりたいと思わなければ、相手の方がこのタイミングでリプライをしてこなければ、相手の方が飲食店の店主から説教を教わっていなければ、僕が運命論・決定論に頭を抱えていなければ、この「縁」の話は成り立たず、また僕の苦悩に響く言葉として受け取られる事も無かったでしょう。

人生は不思議なものです。

運命論から縁という言葉に置き換わっただけで、本質は変わらないのでは?という意見も有るかもしれません。本質はこの際変わらなくても良いと僕は思っています。

問題は、僕が物事をどういう意味合いで捉えているのか、またそれを表す言葉にどういうイメージを感じているのかなのです。運命論は「全ての物事に意味は無い」と感じさせる言葉でした、それとは違い、縁には主体性の依る余地が有り、そして「どんな物事にもどこかで明るい未来に繋がる意味がある」という希望を感じています。

無意味で苦痛に満ちた生を抱えていた僕が、少しの会話で物事の見方が一変して救われるとは、何とも不思議な話です。

正直、縁とは言うもののその内実の真実は分かりません。だとしても、関係が断ち切れていたあの人と復縁したのも、僕がうつ病を患っているのも、noteを介して何人も尊敬できる友人が出来た事も、縁の事を教えてくれたあの方も、親友や主治医、社会に支えられて生かされている事も、全て無意味だなんて思いたくありません。

全てを引っくるめて「縁」で良いのではないか、僕が楽しく生きられるならそう表しても良いのではないか、そう思うのです。

ここまで読まれたあなたも何かの縁だと思います、僕があなたとリアルで出会う事は無いかもしれませんが、僕からあなたへ何かを願う事は可能と思います。あなたの人生が幸多く明るいものでありますように願います。

願いを結びとします。

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