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人生は仮説と検証から成り立っている

人生は全て検証から始まるのではないかと思う今日この頃である。

思えば、生まれて最初に泣いた時、初めて喋って見た時、初めて歩いた時、
おそらく無意識に試して検証してみたのだろう。
「お!!足元がふらつくぜ!」「お!泣いてみたら構ってもらえるぞ?」「パパって読んでみたらコイツが反応するっぽいな」とか。我ながら賢い。

学生時代でもそうだ。人とこんな風に話すと話が弾むんだなとか。逆上がりは足の蹴り方が大事だなとか。足し算を繰り返し何度も試して正解が分かる様に、我々は無意識にいつも検証とその結果で成り立ってるんじゃないかと思う。
いやぁ改めてそんなことをやって退けての今。我ながら賢い。

話を戻すと、この先も仮説と検証を何度でも繰り返せば洗練されてくるんじゃないか?人とまともに話せるようになったのだって小学生の高学年くらいだろう。なんなら中学生ぐらいまで「スカートが短い」だの「あの先輩と話した」だの、訳のわからない理屈で話も通用せず自我を探し求めていたあの頃のカオスを思い返せば、対人関係でもまともに喋るのにだってかなりの訓練と時間を積んだはずだ。

なにより、常に仮説と検証には真似が必要だ。「求めている結果」に対して何を、誰を、どんな真似すれば最短ゴールなのか、どんな思想を知識として必要としてるのか。やはりここから仮説を立てていかなければならない。そして結果が出るのにはとても時間がかかる。それでも数打ち当たりながら多方面の検証データを集めている内に、脳は赤子の時同様に無意識に結果を出してくれる様になるはずだ。

つまり、君も私も何かを諦めたり絶望するには早計すぎるかもしれない。ゼロから喋れる様になった様に、同じ手順を踏めば誰だってまだ何か得たいものは出来るようになるはずだ。


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