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わたしと長女

家族の記事を書いた。

2人の姉のことについても書いた。
割と自慢の姉であると書いたけれど、
ここにたどりつくまでのわたしは本当に酷かった。

長女は、脳性麻痺という障害を持っていて、重度の身障者と判断される。
出産時の事故が原因で、産まれたての時、生きられる可能性は0.1%と言われたらしい。
これ、のちのちも母に散々聞かされて途中でうんざりしていたけれど、、、

そんな中見事生き抜いたが、お土産(?)に「脳性麻痺」という障害をもらってしまった…という姉なのである。

脳性麻痺と一言にいっても、人によって症状はさまざまで、姉は運動神経が麻痺しているタイプ。
故に人の力を借りないと生活ができない。
歩くことはもちろん、食事も、トイレも、寝返りでさえ、自分の力だけではできない。言葉も、彼女が何を言っているかわかるようになるには慣れが必要で、はじめましての人が彼女の言葉を理解できるようになるには時間がかかる。
ただ、知的麻痺はないのでこちらが言っている内容はもちろんわかるしコミュニケーションも取れる。

…これが、小さい頃のわたしにはやっかいであった。

しかも姉ちゃん、なにせスーパー姉ちゃんなので、
わたしからすると障害を持っている人である、という感覚はあんまりない。
(実際、介助されないと生活できてないから一応わかってはいるのだが)

それなのに何故かみんなが姉に集中する、世話を焼く(当たり前なんだけど)気にかける…

この光景は、わたしにとっては、家族の視線、親戚の視線、あらゆる人の愛情を一手に浴びてるスーパーアイドル…

のように見えていた。(多分)

だからこそ、小さいながらにそれが羨ましく、妬ましかった。
何故お姉ちゃんばかり?!という気持ちが強かった。
歩けないだけなのに!みたいな。(十分だがな)

とにかく、お姉ちゃんじゃなくてわたしをみて!という感覚が、ずっとあったのだと思う。

決して蔑ろにされていたという記憶もないが、
当時のわたしにとっては、毎日の姉へのあらゆる人の言葉かけや配慮の時間が
自分を見てもらえていない…という想いをむくむくと育てていっていた。

そして、それが元で常日頃から姉にはかなりきつい態度と言葉を浴びせていたし、それは私が成長すると同時にどんどんエスカレートしていった。

1番酷かったのは、散々姉の出生物語を聞いてうんざりした私が放った一言だと思う。
たしか、まだ4、5歳だったんじゃなかろうか。
母は、姉の存在がいかにすごいか、ということをわたしに伝えようとしていたのかもしれないが、
普段から姉への嫉妬でいっぱいのわたしにそんなこと言われても、いい気がしないのである。

母からすると、「すごいね、お姉ちゃん」という言葉を期待していたのかもしれないが、
わたしの口から出た言葉は

「お姉ちゃんなんか産まれてこなければよかったのに。事故の時、死んじゃえばよかったのに!!!」

だった。

…あああああ、、、言っちゃったよねえ。
今こうして文字にしてみると、子供だったということを考えてもやっぱり酷いな…と思ってしまう。
でも、当時のわたしの、心からの叫びであったのは間違いない。

もちろん、死ぬほど怒られた。
めちゃくちゃに怒られて、外に出されそうにもなった。
しかし、壁の際につかまって離さないわたしの力があまりにも強くて、母は根負けして途中からは言葉で諭してきた。

しかしわたしは最後まで、
「ごめんなさい」が言えなかった。


ただ不思議なもので、一応ちゃんと罪悪感は持っていた。
何を言ってもいいなんて思っていたわけではなかったし、
この言葉がどれだけ姉を傷つけているのかもなんとなく理解していて、同じように自分も傷ついていた。

そういう感覚は、今もこの出来事の記憶とセットで覚えている。

とはいえその後も、似たような酷い言葉は散々投げかけ続けていた。

酷かったのは、言葉だけではない。

最初の方に書いたように、姉はひとりで寝返りもできないしトイレにも行けない。
小さい頃、私たち姉妹は3人で1階の和室で寝ていた。父と母は2階にいる。
だから、姉はトイレに行きたくなったり寝返りしたくなるとまずわたしや次女に助けを求める。

2階で寝ている母を呼ぶために、自力で大声も出しながら、私たちに助けを求める。

しかしわたしは、その声が大っ嫌いで、いつも意地悪して気づかないふりをしたり、
必死で伸ばした姉の手を跳ね除けては
寝たふりしていることをわざと気づかせるように振る舞った。
次女と2人で、どちらが先に根負けして呼びに行くか…の勝負みたいになることもあった。

姉はその度に、悲鳴のような声で泣き叫んでいた。
きっと悔しさややるせなさから出てくるのだろう、
その声を聞きながら、少しだけ仕返ししてやれたような気持ちになっていた当時の自分、怖い。。。

でもそれだけ、何か鬱屈とした気持ちをわたしはわたしで溜め込んでいた。
そんな仕返しが成功したところで何も解消されない気持ちなのに、当時はどう解消してよいか方法が全くわからなかった。
ただただ、姉の存在が邪魔で邪魔で、その思いを当の本人にぶつけることしか出来なかった。

……波はあるにせよ、こういう状態が高校卒業するまで続くわけだけど、
なぜ、大学生になった時に姉たちへのこういった攻撃的な気持ちがぱたっと解消されたのだったっけ?
と、先程記事を書いた時思って考えてみた。

そうしたら、間違いなくこれだ、と思ったものがあったので書いておく。

私が成長するごとに、家族に対してのひとつの攻撃のエネルギーは大きくなるが、
同時に、自分がめちゃくちゃなことをしていることもわかってくるわけで、

一緒に生活する上で、楽しいことももちろんあったし、姉をきっかけにして知り合えた人、触れ合えた人がいること、そういう時間が自分の内面を育ててくれていることにもなんとなく気づいていた。

だけど、ここまで反抗してきてしまって、いきなり
「お姉ちゃん大好きー!」なんてなれるわけもなく、
後半はもう、多分殆どが意地だったのだよな。

家の中で作り上げてきた「わたしというキャラクター」を捨てるタイミングがわからなくなってしまっただけだったのだと思う。

そしてそれが捨てられるきっかけになったのは、
大学生になって、はじめての彼氏ができたときだった。

なんのことはない、
自分を好きだ、と強めに言ってきてくれる人、味方のような人ができたのが大きかったのだと思う。

なんだ、恥ずかしいくらい、超単純じゃないかよ。。。

それと、自分と家族を客観的に見られるようになったのも大きかったと思う。
当時、彼氏がいるなんて家族に言ったことはなかったが、彼氏の家が学校から近かったこともあって、ある時期から実家にあまり帰らなくなっていた。
彼氏の家だけでなく、一人暮らしの友達ができたことで、
人の家を点々とする毎日で、それが楽しかった。

そんなこんなで家と少し距離を取れるようになったのが
私が少し大人になれた理由だと思う。
さらに、外の世界で私のことを気にかけてくれる人、大事にしてくれる人がこの時期はありがたいことに多かったこともあり、一時的に色々満たされていたのだと思う。
(そんな時間が一生続くわけじゃないということ、後に嫌というほど思い知らされるのだが…)

そこからは、姉に対して極端に攻撃的なことをすることもなく、なんなら誕生日にプレゼント買っていっちゃうくらいにまで成長(?)した。

それからは、姉2人に対しては、優しいわたしになっていった。

…色んなことすっ飛ばしてここまで書いてみたが、
この期間にもいろんなことがあった。

それはまた、何かの時に…

「わたしと長女」ひとまずおわり!

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