【翻訳】ワーニャ伯父さん・第1幕(A.チェーホフ)

ワーニャ伯父さん
田舎の生活を舞台にした四幕劇

登場人物
 セレブリャコーフ アレクサンドル・ウラジーミロヴィチ:退職した元大学教授
 エレーナ・アンドレーエヴナ:その妻、27歳
 ソフィア・アレクサンドロヴナ(ソーニャ):教授の最初の結婚相手の娘 
 ヴォイニーツカヤ マリヤ・ワシーリエヴナ:教授の最初の妻の母親、未亡人、夫は大臣(三等官)だった
 ヴォイニーツキイ・イワン・ペトローヴィチ(ワーニャ):マリヤの息子
 アーストロフ・ミハイル・リヴォーヴィチ:医師
 テレーギン・イリヤ・イリーイチ:貧乏な地主
 マリーナ:年老いた乳母 
 使用人 

  舞台はセレブリャコーフの領地で繰り広げられる

第一幕

庭園。テラス付きの屋敷の一部が見える。古いポプラの木の下に、紅茶を飲むために準備されたテーブル。いくつかのベンチと数脚のイス。ベンチの一つにはギターが置いてある。テーブルからそう離れていないところにブランコ。昼の二時、どんよりとした曇り空。

マリーナ(太っていて歩くのが億劫なおばあさん、サモワールのそばに腰かけて靴下を編んでいる)とアーストロフ(その近くを歩き回っている)

 マリーナ:(コップに注ぐ)どうぞ、召しあがれ。
 アーストロフ:(しぶしぶコップを受け取る)なんだか飲みたくないな。
 マリーナ:ウォッカならおあがりですか?
 アーストロフ:いや、私も毎日はウォッカを飲まないよ。それに蒸し暑いや。

 アーストロフ:ばあや、私たちが知り合ってどれくらいたったかな?
 マリーナ:(考え込みながら)どれくらい? ええ、覚えているのは……先生がこの地方に来たのは……いつだったろう? まだソーニャのお母さんのヴェーラ・ペトローヴナが生きていて。ふた冬やって来ていたから……すると、11年ほどかね。(ちょっと考えて)いやもっと……
 アーストロフ:随分変わっただろうね、あの頃から?
 マリーナ:随分と。あの頃は若かったし、良い男だったけど、今は年を取って。それに男っぷりも、もうないね。おまけにウォッカを飲んだりして。
 アーストロフ:そう……10年で別人になった。どうしてだろう? 働き過ぎだよ、ばあや。朝から晩まで立ちっぱなしで、休む暇もない。夜に毛布をかぶって寝ていても、病人のところに引っ張っていかれるんじゃないかとビクビクしている。知り合った頃からずっと、自由になる時間は一日もなかった。年を取らずにはいられるかね? それに生活自体も退屈で、馬鹿げていて、汚らしい……そんなところへ引きずりこまれる。周りは変人だらけ、見渡す限り変人しかいない。でもそいつらと2、3年一緒に暮らしていると、少しずつ気づかぬうちにこっちも変人になっている。のがれられぬ運命[さだめ]さ。(自分の長い口ヒゲをねじりながら)こんなデカいヒゲを伸ばして……馬鹿げたヒゲさ。変人になっちゃったよ、ばあや。馬鹿にはなったが、まだ完全になり切っちゃいないし、神様のお情けで脳みそは収まるべきところにあるけれど、心の方はなんだかしおれてしまった。何にも欲しくないし、何にも必要ない、誰も愛していない……まあ、愛しているのは、ばあやだけだ。(彼女の頭にキスをする)私にも子供の頃にこんなばあやがいたよ。
 マリーナ:きっと、何か召し上がりたいんでしょう?
 アーストロフ:いらないよ。大斎の3週目(3月の終わりから4月のはじめくらい)に伝染病が出たマリツコエ村に行ったんだ……発疹チフスでね……百姓の家にはみんなが雑魚寝で、泥、悪臭、煙、床には子牛が病人と一緒に寝ている……子豚までいたよ……。一日中大忙しで、座って休む間も何か口にする暇もなく、家に帰ってからも休ませてもらえなかった。鉄道の交換手が運ばれてきたから、手術をしようと台にのせてクロロホルムを嗅がせたら、そのまま死んじまったんだ。すると必要もないのに、胸の中にある心が目を覚まして、まるでわざと殺したかのように、良心に締め付けられた。座って目を閉じてこんなふうに考えたよ。私たちに続く100年200年後の人達のために、私たちはいま道を切り開いているが、彼らは私たちを懐かしんでくれるだろうかってね? ばあや、まさかそんなことはないだろうね!
 マリーナ:人々が懐かしんでくれなくても、神様が懐かしんでくれますよ。
 アーストロフ:これはどうも。うまいこと言うね。

ヴォイニーツキイ(ワーニャ)入場

ヴォイニーツキイ:(家から出てくる。朝食後に眠りすぎてだるそうな様子。ベンチに座って、している派手なネクタイを直す)うん……うん……

ヴォイニーツキイ:うん……

 アーストロフ:よく眠れたか?
 ヴォイニーツキイ:うん……たっぷり。(あくびをする)ここに教授殿とその奥方が住むようになって、生活の調子が根本的に狂ってしまった。時間通りには眠れない、朝と昼にはスパイスのきいた色んな辛い大豆のソース(カブーリ)に、ワイン……どれもこれも最低だ! 以前は自由になる時間なんて一切ないほど私もソーニャも働いて、尊敬に値したが、今ではソーニャひとりだけ働いて、私は食べて、飲んで、寝ている……こいつは良くない!
 マリーナ:(首を振って)だらしない! 朝からサモワールを沸かしてみんなで待っているのに、教授が起きたのは昼の12時。あの人たちがいなければ、どこでも皆がしているように12時にお昼なのに、あの人たちとだと夜の6時。教授は夜中に書いたり読んだり、突然、夜中の1時にベルを鳴らす……どうしたんです? といえば、お茶だとくる。あの人のためにみんな起こして、サモワールの準備をしなけりゃならない……だらしない!
 アーストロフ:それであの人たちは長いことここで過ごすのかい?
 ヴォイニーツキイ:(口笛を吹く)100年さ。教授はここに引っ越すと決めたそうだ。
 マリーナ:今だってそう。サモワールがテーブルに2時間もあるのに、あの人たちは散歩に行ってしまった。
 ヴォイニーツキイ:来た、来たよ……そう興奮するな。

話し声が聞こえ、庭の奥の方から散歩から帰ってきたセレブリャコーフ、エレーナ、ソーニャ、テレーギンが登場。

 セレブリャコーフ:素晴らしい、素晴らしい……見事な眺めだ。
 テレーギン:驚くべきものですね、閣下。
 ソーニャ:明日は森の方を見に行きましょう、パパ。見たいでしょう?
 ヴォイニーツキイ:皆さん、お茶をどうぞ!
 セレブリャコーフ:いやあ皆さん、お茶は書斎に届けてください、頼みます! 今日は少々仕上げなければならないことがまだあるので。
 ソーニャ:でも、森の方も絶対に気に入ると思う……

エレーナ、セレブリャコーフ、ソーニャが家の方へ退場。テレーギンはテーブルの方へ歩き、マリーナのそばに座る

ヴォイニーツキイ:暑くて息苦しいのに、我らが偉大な学者様はコートにブーツ、日傘に手袋だ。
 アーストロフ:見ての通り、ご自分が大切なんだろう。
 ヴォイニーツキイ:それにしても、なんて良い女だろう。良い女だなあ。生きてきてあれほどの美人を見たことがないよ。
 テレーギン:草原を馬車で行くときも、庭の木陰を散歩をしていても、このテーブルを見るときも、何とも言えない至福の時間だと感じるね、マリーナ・チモフェーエワ。天気は目覚ましく、鳥たちが歌い、私たちはみんな平和に仲良く暮らしている。これ以上何を望みましょう? (コップを受け取り)心から感謝いたします!
 ヴォイニーツキイ:(夢見心地で)あの目……絶世の美女だ!
 アーストロフ:何かしら話をしてくれよ、イワン・ペトローヴィチ。
 ヴォイニーツキイ:(元気なく)何を話すんだよ?
 アーストロフ:新しいことは何もないのか?
 ヴォイニーツキイ:ないね。すべて昔のまま。私も同じように昔のまま、いや、サボり癖が付いて、まるでしなびたジジイみたいに何もせずに文句ばかり並べて、前よりひどくなったな。私の年老いたおしゃべりガラス(コクマルガラス、よくしゃべる人という意味で用いられる)、ママンは未だに女性解放についてぶつくさ訳の分からないことを言っている。片方の目では墓を眺めながら、もう一方の目では明晰な本の中に新しい人生の幕開けを探し求めているよ。
 アーストロフ:教授の方は?
 ヴォイニーツキイ:教授の方も以前と変わらず朝から夜遅くまで書斎に座り通しで何かを書いている。「知恵を絞り、眉間に皺よせて、詩(うた)を詠めど、詠めども、我が身にも詩にも賛美の声は一切聞こえぬ」というやつさ。紙がかわいそうだ。あいつは自叙伝でも書いた方が良い。それこそ最高の題材だ! 引退教授、というよりも年老いた乾パン、学のある干物だよ……痛風、リウマチ、偏頭痛、嫉妬と妬みでパンパンに膨れた肝臓……あの干物は最初の妻の領地に住んでいるが、嫌々ながらで、町に住むには懐が寂しいからでしかない。いつだって自分の不幸を呪っちゃいるが、実際には、尋常じゃないくらい幸せなやつなんだから。(怒って)考えてもみろよ、なんて幸運だ! つまらん副輔祭の息子、神学校の生徒が学位と教授の椅子を手に入れて、閣下と呼ばれるようになり、元老院の娘婿におさまる、数えあげればきりがない。だが、そんなものは大したことじゃない。だがこいつはどうだ。丸25年も芸術について読んだり書いたりしてきた男が、芸術なんてまるでわかっちゃいない。あいつは25年間、リアリズムだの、ナチュラリズムだのそのほかどうでもいいものについて、他人の考えをつらつらと並べ立てただけだ。25年読んだり書いたりしたものは、賢いやつにとってはわかりきったことだし、バカにとっては面白くもない。結局、何の意味もない25年ってことさ。なのにあの傲慢さ! ひどいうぬぼれ! 引退したあとは誰一人してあいつのことを知らないし、まったくの無名だ。結局、25年間他人が座るべき椅子におさまっていただけなのさ。なのに見ただろう、現人神のように歩いてやがる!
 アーストロフ:んー、うらやましいみたいだな。
 ヴォイニーツキイ:ああ、うらやましいさ! 女に対する成功にね! ドン・ジュアンだってあれほどの成功にはありつけないだろうよ! あいつの最初の妻、私の妹は、美しく、良くわきまえた、この青空のように純粋で、上品で、おおらかで、あいつが受け持っている学生よりも信奉者がいるほどだったけれど、あいつを愛した。まるで天使が同じくらい純粋で美しい自分たちと同じような存在に与えるような愛情でね。私の母はあいつの姑でもあるが、今でもあいつを崇め奉り、目もくらむような畏怖をあいつに感じている。そして、君たちも見た通りだが、二番目の妻は美人で頭もいいのに、あいつが年寄りになってから結婚し、若さや美貌、自由、その輝きまでも捧げてしまった。何のために? どうして?
 アーストロフ:彼女は教授に貞淑なのかい?
 ヴォイニーツキイ:残念ながらね。
 アーストロフ:なんで残念なんだ?
 ヴォイニーツキイ:その貞淑とやらは何から何まで偽物だからさ。そこにはレトリックはあってもロジックはない。年老いた旦那を裏切ることは今出来ない、それは不道徳だから。でも自分の可哀そうな若さや感情を押し殺すのは不道徳じゃない、ってな具合だからさ。
 テレーギン:(泣きそうな声で)ワーニャ、そんなことは言っちゃいけないよ。妻や夫を裏切る信用ならない人間は、祖国だって裏切りかねないんだよ!
 ヴォイニーツキイ:(イラっとして)黙ってろ、ワッフル!
 テレーギン:頼むよ、ワーニャ。私の妻は結婚式の翌日に愛人と私の元から去っていった。私の見てくれがひどいせいでな。でもそれからも私は義務に忠実だったよ。今でもあいつを愛しているし、裏切らず、出来る限りの助けをして、あいつと愛人の間に生まれた子供の養育費に財産も渡した。幸せは失ったけど、誇りは残ったよ。でもあいつは? 若さだって美貌だって自然の摂理に従って失って、愛人だって死んでしまった……あいつに何が残っただろう?

ソーニャとエレーナ入場。少しして本を持ったマリヤ・ワシーリエヴナが入場し、腰を掛けて本を読み始める。お茶を差し出されるが、彼女はそれを見もせずに飲む。

ソーニャ:(急いだ様子でばあやに)ばあや、むこうに百姓たちが来てるの。行ってあの人たちと話してあげて。お茶は自分でやるから……(お茶をそそぐ)

ばあや退場。エレーナは自分のカップを手に取り、ブランコに乗りながらお茶を飲む。

 アーストロフ:(エレーナに)私はあなたのご主人のために来たのですけどね。酷い病気でリューマチやらなにやらと色々書いておられましたが、健康そのものじゃないですか。
 エレーナ:昨日の夜、あの人は本当に具合が悪くて、足が痛いと文句を言っていたのに、今朝になったらなんともなくて……
 アーストロフ:一目散に30キロも馬を飛ばして来たんですよ。まあ、いいでしょう、初めてのことでもありませんし。そのかわり明日までこちらに泊まって、最低限、じっくりと眠らせていただきます。
 ソーニャ:素敵。こちらにお泊りいただくなんて嬉しい。きっとお昼はまだですよね?
 アーストロフ:そうですね、まだ。
 ソーニャ:ちょうどこれからお昼なんです。わたしたち今では6時にお昼なんです。(お茶を飲む)冷た!
 テレーギン:サモワールの温度がもうずいぶんと下がりましたから。
 エレーナ:大丈夫です、イワン・イワーヌイチ、私たちは冷たくても飲めますから。
 テレーギン:すみませんが……イワン・イワーヌイチではなく、イリヤ・イリーイチです……イリヤ・イリーイチ・テレーギン、またはこのあばた顔のせいでワッフルと呼ぶ人もおります。ソーニャの名付け親で、閣下、あなたのご主人も私のことを良く存じております。今ではこちらに、この領地に住んで……お気づきでしたら、毎日昼食もご一緒しております。
 ソーニャ:イリヤ・イリーイチは私たちの助手、右腕なんです。(優しく)どうぞ、おじさま、もう一杯お注ぎします。
 マリヤ・ワシーリエヴナ:あら!
 ソーニャ:どうしたの、おばあさま?
 マリヤ・ワシーリエヴナ:アレクサンドルに言うのを忘れた……うっかりして……ハリコフのパーヴェル・アレクサンドロヴィチから手紙があって……新しいブックレットも送ってきたけれど……
 アーストロフ:面白いですか?
 マリヤ・ワシーリエヴナ:面白いけれど、なんだかおかしいの。7年前に自分が擁護していたものに反対していて。ひどい話!
 ヴォイニーツキイ:別にひどくはありませんよ。ママン、お茶をのんだら。
 マリヤ・ワシーリエヴナ:でも、私は話したいの!
 ヴォイニーツキイ:しかし、私たちはもう50年も話しまくって、ブックレットを読んできました。それももう終わりにする頃合いです。
 マリヤ・ワシーリエヴナ:お前はどうしてだか、私が話すのを聞くのが不愉快なんだね。失礼だけど、ジャン、この1年でお前はずいぶんと変わったよ、まったく見違えるほどに……はっきりした信念を持った人で、明るい性格だったのに……
 ヴォイニーツキイ:ほお、そうだね! 私が明るい性格だったことで、誰一人明るくなった人はいなかったけど……

ヴォイニーツキイ:明るい性格だった、か……これ以上キツイ冗談はないね! 私は今では47。去年までは、あなたと同様に、あえて現実を見ないようにスコラ哲学で目の前をぼやかそうと努力し、それが良いことだとも考えてきた。でも今はどうだろう、あなたにもわかってもらえたら! 今になって、年を取って諦めたあらゆるもの、それが手に入れられたはずの時間を愚かにも失ったことに、悔しくて、やりきれなくて、夜も眠れないんだ。
 ソーニャ:ワーニャおじさん、よして。
マリヤ・ワシーリエヴナ:(息子に)お前は自分の昔の信念を非難しているようだけど……悪いのはその信念ではなく、お前自身です。信念それ自体は何でもない唯の死んだ言葉だということを忘れたんでしょう……仕事をしなければならなかったのに……
 ヴォイニーツキイ:仕事? 誰しもがあなたの教授殿のように執筆マシーンのようになれるわけではありませんよ。
 マリヤ・ワシーリエヴナ:何が言いたいの?
 ソーニャ:(頼み込むように)おばあさま! ワーニャ伯父さん! お願い!
 ヴォイニーツキイ:黙る、黙るよ、すまなかった。

 エレーナ:今日はいい天気ですね……暑くもなくて……

 ヴォイニーツキイ:こんな天気には首をくくるのが良いね……

テレーギン、ギターを調律する。マリーナは家の周りを行ったり来たりし、雌鶏を呼んでいる。

 マリーナ:とーととと……
 ソーニャ:ばあや、百姓たちはどうしたの?
 マリーナ:いつものこと、また空き地のことですよ。とーととと……
 ソーニャ:どの子を呼んでるの?
 マリーナ:ブチのがヒヨコと一緒にいなくなって……カラスにやられなけりゃいいけど……(退場)

テレーギン、ポルカを弾く。全員が黙って耳を傾ける。使用人が入場

 使用人:お医者様はこちらに? (アーストロフに)お願いします、ミハイル・リヴォーヴィチ、迎えが来ました。
 アーストロフ:どこから?
 使用人:化学工場からです。
 アーストロフ:(イラっとして)ありがたいことだ。まったく、行かなければ……(目視で帽子[つば付きのもの]を探す)嫌になるなあ、くそ……
 ソーニャ:不愉快ですよね、本当に……工場からお昼にいらしてください。
 アーストロフ:いや、遅くなってしまうでしょうから。どこだ……どこにいった……(使用人に)いやはや、すまないがウォッカを1杯持ってきてくれないだろうか……まったく。

使用人退場

アーストロフ:どこだ……どこにいった……(帽子を見つける)オストロフスキーの芝居にデカいヒゲをして能のない人間がいましたね……それが私ですよ。では、失礼、みなさん……(エレーナに)もしお時間があればうちに寄ってください、ソフィア・アレクサンドロヴナと一緒に。心から歓迎いたします。わずか30ヘクタールほどの小さな領地ですが、もしご興味があれば、周囲1000キロを見渡してもないような模範的な庭園と苗木園があるんです。うちの隣には国有林もあって……森の管理人は年寄りで、病気がちなので実際には私が面倒を見ています。
 エレーナ:あなたが緑を愛していらっしゃることは前にもうかがいました。もちろん、とてもお役に立つことなのでしょうけど、本来の使命に差しさわりはないんですか? お医者様なのに。
 アーストロフ:わたしたちの本来の使命がなにかなんて、神のみぞ知るですよ。
 エレーナ:それに面白いんですか?
 アーストロフ:ええ、面白い仕事です。
 ヴォイニーツキイ:(皮肉を込めて)すっごくね!
 エレーナ:(アーストロフに)まだお若いでしょう、見たところ……36か7くらい……それならあなたがおっしゃるほど面白くはないはずです。いつも森ばかりなんて。単調な仕事に思えます。
 ソーニャ:いいえ、とっても面白いんです。ミハイル・リヴォーヴィチは毎年あたらしい木を植えて、銅メダルと賞状ももらったことがあるんです。古い木が切りはらわれないようにも頑張っています。あなただってよくお話をお聞きになったら、まったく同じ気持ちになるはずです。森は大地を飾り、人々に美しさをさとし、麗しい気持ちにさせてくれると先生はおっしゃいます。森は過酷な気候をやわらげてくれる。おだやかな気候の国では自然との戦いに消耗する力が少なくすむから、人々もよりおだやかで優しくなれる。住む人々は美しく、しなやかで、とても感じやすくて、話し方も動きも優雅なの。科学も芸術も盛んで、哲学も暗くなくて、女性に対する態度も優雅で洗練されていて……
 ヴォイニーツキイ:(笑いながら)ブラヴォー、ブラヴォー! 素晴らしい、しかしそんな風になるとは納得いかないな。(アーストロフに)わが友よ、これからも暖炉で薪を燃やし、木材で納屋を建てることをおゆるしください。
 アーストロフ:暖炉は泥炭でもたけるし、納屋は石で建てられる。必要があれば木を切ってもいいが、切り払う必要はないだろう? ロシアの森は斧で音を立てて切り倒され、数十億の木々が枯れ、動物や鳥のすみかが荒らされ、川は浅くなって干上がり、奇跡的な風景は消え失せ二度と戻らない。それもこれも、腰をかがめて地面から燃料を拾おうという考えにいたらない怠け者どものせいだ。(エレーナに)違いますか、マダム。あの美しい自然を暖炉で焼き、自分で作り出せないものを破壊できるのは考えなしの野蛮人に他ならない。人間に理性と創造する力が与えられたのは、自分たちに授けられたものを増やすためなのに、今まで作り出すどころか壊してきた。森はどんどん減り、川は干上がり、野鳥は絶滅し、気候がおかしくなって、日に日に大地は貧しく醜くなっていく。(ヴォイニーツキイに)そうやって君は皮肉を込めた目で見て、私が言うことなど真面目に受け取るものじゃないと思っている……たしかに、これは結局変人のやることかもしれない。しかし、伐採から救った百姓たちの森の脇を通ったり、自分の手で植えた若い木々の葉擦れの音を聞いたりすると、気候が少しでも自分の思い通りになって、1000年後の人間が幸せになってくれたら、それが少しでも自分のおかげだなんてことを意識するんだ。白樺を植え、それが青々と風に揺られているのを見ると私の心は誇りで満たされていく……それで私は……(使用人がウォッカのグラスを運んできたことに気が付く)とはいえ……(飲む)もう時間です。きっと変人のすることですね、結局は。では失礼!(屋敷の方へ向かう)
 ソーニャ:(アーストロフの手を取って腕を組み、一緒に歩く)次にいらっしゃるのはいつですか?
 アーストロフ:わかりません。
 ソーニャ:また来月?……

アーストロフとソーニャ、屋敷のなかへ退場。マリヤ・ワシーリエヴナとテレーギンはテーブルの近くに残る。ヴォイニーツキイとエレーナはテラスの方へ移動する

 エレーナ:イワン・ペトローヴィチ、あなたはまたありえないふるまいをして。マリヤ・ワシーリエヴナを怒らせたり、執筆マシーンなんて言う必要などないはずです! それに今朝の食事中にもアレクサンドルと言い争いになった。なんてあさましい!
 ヴォイニーツキイ:でも、私は彼が憎いんですよ!
 エレーナ:アレクサンドルを憎んでも仕方がないでしょう、あの人はみんなと同じ。あなたより酷いわけでもない。
 ヴォイニーツキイ:もしあなたがご自分の顔や立ち振る舞いを見られたのなら……なんて気だるい生き方をしているんですか! ああ、なんて気だるさだろう!
 エレーナ:ええ、だるくて退屈ね! みんなで私の夫を馬鹿にして、「不幸な女だ、あんな年寄りが旦那だなんて」と、私を同情の目で見てくる。そんな私への同情は、私だって理解しています! さきほどアーストロフさんが言ったように、あなたたちはみんなで考えなしに森を破壊して、やがて地上には何も残らないでしょう。それと同じようにみんなで人間を破壊して、そのおかげで地上からは信頼も、純粋さも、自己犠牲の精神も消えてしまうでしょう。どうしてみんな自分のものでもない女に無関心でいられないの? あのお医者様が言った通り、誰もが胸の中に破壊の悪魔がいるのね。森の緑や鳥たち、女性やお互いに対してもあわれみもしない。
 ヴォイニーツキイ:私は嫌いですね、そんな哲学は!

 エレーナ:あのお医者様は、疲れた張り詰めた顔をしていらした。興味深い顔。見るからにソーニャはあの人が好きで、私にもあの子の気持ちがわかる。私が来てからあの人はここに3回いらしたけれど、わたし人見知りで、一度も向き合ってお話をしたり、愛想よくしたことがなかった。私が嫌な女だと思ったでしょうね。イワン・ペトローヴィチ、私たちがこんな風に友人でいられるのは、お互いにつまらない退屈な人間だからね。つまらない人間! そんな風に私を見ないで、そういうのは嫌いです。
 ヴォイニーツキイ:私はあなたが好きだから、違ったふうにあなたを見ることはできません。あなたは私の幸せ、人生、青春です! 相思相愛になるなんて見込みは絶望的で、ゼロに等しいことは私もわかっています。でも、何もいらないかわりに、ただ見つめさせて、声を聞かせてください……
 エレーナ:静かにして、誰かに聞かれるでしょう!

二人は家へ向かう

 ヴォイニーツキイ:(彼女の後ろから)追っ払わないで、愛を語らせてください。それだけが何よりの幸せなんですから……
 エレーナ:もう、やってられない……

二人退場
テレーギン、ギターの弦を叩き、ポルカを弾く。マリヤ・ワシーリエヴナはブックレットの余白に何かを書き込んでいる。



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