スタニスラフスキー「職人芸」1

 舞台の上から役を報告する、つまり、その舞台上の解釈のフォルムのために一度ならず永遠に確立した役を、文法的に正しく読んで声に出すことは可能だ。
 だがこれは芸術ではなく、ただの職人芸だ。
 何世紀ものあいだ私たちの芸術は非常に保守的で、更新されることもまれで、俳優の職人芸が広く普及し、市民権を得てしまった。職人芸が真の芸術を押しやったのは、才能のない職人芸使いたちが圧倒的多数で、才能のあるクリエイターが絶望的に少なかったためだ。
 そのため、職人芸について綿密かつ詳細に語らなければならない。
 だが、職人芸に向き合わざるを得ないもう一つの理由もある。
 それは偉大な俳優たちでも職人芸までレベルを落とすことがよくあり、その一方で職人芸使いたちが芸術にまで上り詰めているという事実である。
 俳優たちはより正確に自分たちの芸術と職人芸が始まる境目を知らなければならず、さらに職人芸使いたちにとっても芸術が始まる境界線を理解することは有益である。
 職人芸の本質とは何であり、そしてどこにその境界があるのか?
 体験の芸術では役の感覚を毎回創造のたびに感じ、再現の芸術では最初に理解するために役を家で体験を一度した後は、それぞれの役の精神的な本質を表現するようなフォルムを模倣する。だが、経験について忘れた職人芸タイプの俳優たちは、一度ならず永遠に、感覚を表現する準備されたフォルムや、あらゆる役や芸術における方向性のための舞台の解釈を作り上げることを目指している。言いかえれば、体験の芸術でも再現の芸術においても体験のプロセスは避けられないものだが、職人芸ではそれを必要とせず、偶然に捕まえられるだけなのだ。職人芸使いの俳優たちには様々な役を別個のものとして創造する能力はない。彼らは体験することも、体験されたことを自然に具現化することもできない。職人芸使いの俳優たちにできるのはただ役のテクストを報告することで、その報告に一度ならず永遠に作り上げた舞台の演技の手段を不随させる。このために職人芸使いの俳優たちはあらゆる役の朗読の手法を必要とし、準備された全人類の感覚を図解するためのスタンプや、全人類的なイメージの模倣のための規定のテンプレート必要とする。手法、スタンプ、テンプレートは俳優の職人芸の課題を簡単にしてくれる。
 まったく生活そのものの中にありながら、感覚の手法やフォルム、才能のない人々が簡素化した生活が出来上がるのだ。信じる能力のない者のために儀式が定められ、畏敬の念を抱かせる能力がない者のためにエチケットが考え出され、着こなしが出来ない者のためにモードが作られ、興味の少ない者のために因習が作り出されるような例のように、創造する能力がないもののために職人芸が存在しているのだ。これこそ国家に属する人々がセレモニーを、司祭たちが儀式を、商人たちが慣習を、おめかしたちがモードを、俳優たちが因習、手法、スタンプやテンプレートを含む舞台の職人芸を好む理由だ。
 職人芸は、あらゆる芸術と同様に、全体または一部において経験を基礎とする体験の芸術にも再現の芸術とも一切関係を持たない。
 職人芸使いは生きることもなく、生活や人間の感覚とイメージを、一度ならず永遠に確立された舞台の演技の手法を使って模倣するだけである。
 こうしてこれらの手法が作り出された。

 2へつづく

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