スタニスラフスキー「職人芸」2

 1からつづき

 感覚を表現するためにはそれを感じる必要がある。感覚を模倣することは不可能だ。それゆえ職人芸使いは体験する能力がなく、自分の感覚は安定したままで、注意はすべて身体を使った行為か、存在しない体験を特徴づける動作に向けられる。こうして職人芸使いは、感覚そのものとは無関係で、その結果のみと関係を持ち、精神的な体験とは無関係に、体験されたものを表現する身体的な行動だけと関係を持つ。
 そのため、俳優の発話と同じように身振りの言語においても、職人芸使いたちは、欠けている体験そのものを反映するのではなく、再現の芸術のようにイリュージョンを作り出すわけでもなく、単に機械的に人間の体験の身体的な反映として、つまり感覚そのものはない、その外面的な結果を、精神的な中身のない、その外面的なフォルムだけを模倣する。この一度ならず永遠に固定された感覚の仮面は、すぐに舞台上で使い古され、生活におけるわずかなヒントを失い、単なる機械的な俳優のスタンプになってしまう。
 これらスタンプの儀式は、一度ならず永遠に確立され、条件的な報告や役の朗読を伴うような俳優の視覚的な儀式を形成する。
 こうしたあらゆる職人芸の演技の手法によって、俳優たちは体験と創造を置き換えたいと欲している。
 もちろん、何物も本物の感覚にはかえられないが、少なくともいくつかの職人芸的なスタンプは、そこに思考が欠けており、時には趣味の悪いものだとしても、嫌々とはいえ我慢もできる。だがはるかに多くの場合、職人芸的なスタンプは酷い趣味で、侮辱し、人間の心への理解の狭さや、心への直線的なアプローチ、単なる愚かさで驚かせてくれる。人間の感覚のカリカチュアを生じさせ、それをあざ笑うことしかできない。しかし、時間と長い月日による習慣は、醜いものを習慣的で生まれつきのものにさえしてしまう。それゆえ、たくさんのカリカチュアのスタンプは常に職人芸に加わり、俳優の慣習の儀式の中に今でも含められている。
 他のスタンプは使い古されて衰え、すぐにはその起源を突き止められない。それを生じさせた内面的な本質をすべて失っているような俳優の手法は、単なる舞台の条件、現実の生活とは何も共通点を持たないものになり、それゆえ俳優の人間的な自然を歪めるものになる。このような条件的なスタンプがあふれているバレエ、オペラ、特別な儀古典悲劇では、その複雑で高潔な主人公たちの体験を、一度ならず永遠に確立された職人芸の能力によって伝えようとする。しかし、私たちの感覚の複雑な生活は、職人芸や機械的な解釈に屈するようなことはまれである。
 俳優の職人芸のなかに蓄積された条件や手法、スタンプ、テンプレートは、どうやっても数えきれないほど途方もない数だ。

3へつづく

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