『俳優の仕事』3章 行動、「もしも~だったら」、「与えられた状況」1


 今日私たちは、小さめだが設備が完備された学校の劇場がある部屋に集められた。
 先生は教室に入ってくると、みんなを注意深く見回してこう言った。
 「マロレトコワ、舞台に行って」
 私には可哀想なあの娘を襲った惨劇を詳しく描写するようなことはできない。その場であたふたし、足は滑りやすいフローリングの床で左右に開いてしまい、彼女はまるでセッターの子犬みたいだった。ようやくみんなでマロレトコワを捕まえ、子供のようにゲラゲラ笑っている先生のところに連れて行った。彼女は両手で顔を隠し、早口で繰り返した。
 「皆さん、できません! みんな、怖い、怖い! 」
 「落ち着いて、さぁ演じてみよう。戯曲の内容はこうだ」と先生は彼女の困惑にそれ以上注意を払わずに言った。「幕が上がる、君は舞台上に座っている。君ひとりだ。座っていて、座っていて、さらに座っている。最後に幕が降りて終わり。これ以上簡単なものは思いつかない。そうだろう?」
 マロレトコワは答えなかった。すると先生は彼女の手を取り、黙って舞台に連れて行った。学生たちはワイワイ囃し立てた。先生はすぐに振り返って言った。
 「みんな、君たちは教室にいるんだ。マロレトコワは俳優人生においてとても大切な瞬間を体験している。いつ、なにを笑っていいのか、知らないといけない。」と先生は言った。(さっき自分が一番笑っていたのに・・・)
 
マロレトコワと先生は舞台に現れた。今度はみんな黙って座って待っていた。上演が始まる前のような、おごそかな雰囲気に包まれた。
 ついに幕がゆっくりと上がった。エプロンステージの中央にマロレトコワが座っていた。彼女は観客を見るのを恐れて、先ほどのように両手で顔を隠していた。その場を支配していた静寂が、舞台上にいる彼女に、特別な何かを期待させた。間が義務を生じさせる。
 どうやら、マロレトコワもこれを感じたらしく、なにかを始める必要があると理解したらしい。彼女は注意深く片方の手を顔から離し、それからもう片方を離した。しかし、このときも頭を深々下げていたので、私たちには彼女の頭頂部の分け目しか見えなかった。新たな疲労をもよおす間が訪れた。
 ついに、周囲が待ち望む雰囲気を感じた彼女は、観客席をチラッと見たが、明るい光に目がくらんだように、すぐに顔をそむけた。彼女は姿勢を正したり、座りなおしたり、ヘンテコなポーズをとったり、寄りかかったり、あちこちに向かって頭を下げたり、短いスカートを強く引っ張ったり、床の上の何かを注意深く目を向けたりした。
 ついには先生が彼女を可愛そうになり、合図をし、幕が降ろされた。

 私は先生のところに直行し、同じ練習を自分にもやらせてくれるようにお願いした。
 舞台中央に自分を座らせる。
 嘘ではないが、私は怖くなかった。だってこれは上演ではないのだから。それなのに自分が二つに分けられる感覚、相容れない様々な要求が、私に嫌な感じを与える。演劇という条件は私に見せびらかせようとさせるが、私が舞台上で求める人間的な存在の方は孤独を要求するのだ。私の中の誰かが観客を楽しませようとし、もう一人の私は観客には注意を払うなと命令する。足も、手も、頭も、胴体も、私に従っているけれど、同時には私の希望に反して、何かしら必要以上に意味を付け加えようとした。ただ手や足を置こうとしても、とつぜんになにかしら格好を付けた格好になってしまう。その結果、写真を撮られるときのようなポーズになってしまった。
 おかしい! 私は一度しか舞台に立ったことはなく、残りの時間はありのまま人間としての人生を過ごしてきたのに、舞台上で座っているのは人間としてではなく、俳優として、つまり、ありのままではない方がはるかに簡単だった。舞台での演劇的ウソの方が、天然の真実よりも身近だった。私の顔はバカな様子だったり、悪いことをしたような顔だったり、申し訳なさそうな顔だったらしい。私は何から手をつけるべきかも、どこを見るべきかも分からなかった。だが先生は決してやめさせようとせず、私をヘトヘトにさせた。
 私に続いて他の生徒たちも同じ練習をやった。

 「では次に行こう。時間がたったら、またこの練習に戻って、舞台で座ることを学ぶことにしよう」と先生は言った。
  「単に座ることを勉強するんですか? だって私たちは座っていましたよ……」と生徒たちは理解できなかった。
 「いや、君たちは単に座ってはいなかった」と先生はキッパリと言った。
 「ではどうやって座るべきだったんですか?」
 先生は答えるかわりに、サッと立ち上がると事務的な足取りで舞台に向かった。そこで先生はまるで自分の家にいるように、ソファーにドサっと腰をおろした。
 先生はまったく何もせず、何をしようともしなかったのに、ただ座っているだけで私たちの注意を引きつけた。私たちは先生が何をするのかが見たくなり、知りたくなった。彼が笑うと私たちも笑い出し、彼が考え込めば何を考えているのか理解したくなり、彼が何かに目を奪われると私たちは彼が何に注意を惹かれているのか知らなければと迫られた。
 ただ座っているだけの先生の過ごし方は興味をひくものではない。それなのに舞台上でそれが行われているとき、なぜだか特別な注意で見てしまい、その光景から満足感のようなものすら感じたのだった。こんなことは生徒たちが舞台上で座っているときにはないことだった。生徒たちを見たいとも思わなかったし、彼らの心のなかで何が起きているのか知りたいという興味もなかった。生徒たちは自分の無力さで笑わせたり、好きになってもらおうと望んだが、先生は私たちにいかなる注意も払っていないのに、私たちは自分から彼に引き付けられていった。どこに秘密があるんだろう? 先生はその秘密を明らかにした。
 「舞台上で起こるすべては、何かのために行われなければならない。そこに座るのも同じく何かのためであることが必要で、ただ観客に見せるために座っているのではないんだ。でも、これは簡単じゃない、だからこのことを学ばなければいけない。
 「何のために先生はいま座っていたんですか?」とヴィユンツォフが確認をした。
 「君たちやちょうどやっている劇場の稽古から休むために座ったのさ、
 それではこっちに来て新しい戯曲を演じてみよう。私も君たちと演じてみよう。」と先生はマロレトコワに言った。
 「先生が?!」とマロレトコワは声を上げ、舞台へ駆けあがった。
 先生はまたマロレトコワを舞台中央のソファーに座らせると、彼女はもう一度しっかり姿勢を整えた。先生は彼女のそばに立って、自分の手帳のなかのメモを探すことに集中していた。この時間でマロレトコワは徐々に落ち着き、ついには動かずに、注意深く先生に目を向けていた。彼女は先生の邪魔になるのを恐れ、次の指示を辛抱強く待っていた。彼女の姿勢は自然なものになった。芝居の舞台が女優としての彼女の素晴らしい才能を強調し、私は彼女に心奪われた。
 こうしてたっぷりとかなりの時間が過ぎていった。それから幕が降ろされた。
 「どんなふうに感じたかな?」二人で客席に戻ってくるときに先生はマロレトコワに尋ねた。
 「わたしが? まさか私たちは演技をしていたんですか?」と彼女は困惑した。
 「もちろん」
 「でも私は先生が手帳の中に見つけて何をすべきかいってくれるのを、ただ座って待っていただけです。私は何も演じていません」
 「そう、まさにそれが良かったんだ。君は何かのために座っていて、何も演じていなかった」と先生は彼女の言葉をつかまえた。先生は私たち全員に向かって。「舞台上で座って、ヴェリヤミノワのように足を見せびらかしたり、ゴヴォルコフのように自分自身をまるごと見せびらかすことと、たとえ気付かれないようなものであっても何かしらをしながら座っているのと、どちらが君たちにとって良かったかな? これは面白みは少ないだろうけど、これこそ舞台上に生活を作り出す。その一方で先ほどのような自己顕示は別の形であっても私たちを芸術の地平から逸脱させてしまう。
 舞台には行動することが必要だ。行動と積極性、舞台芸術と俳優の芸術はまさにこの二つに基づいている。「ドラマ」という言葉じたいが古代ギリシア語では「行われている行動」を意味している。ラテン語でこの言葉に相当するのが actio で、これは act の語源であり、ロシア語の「積極性」、「俳優」、「活動」という言葉に転化している。だから舞台のドラマとは私たちの見ている前で行われている行動であり、舞台に出てくる俳優は行動する人物になる。
 「すみません」突然ゴヴォルコフが口を挟んだ。「先生は舞台では行動することが必要だとおっしゃいました。ですが、なぜソファーに座っていたのが行動になるんですか? 私にはそれは完全にまったく行動のない状態に思えます。
 先生が行動していたか、していなかったかは分からないけど、先生の「行動のない状態」は君の「行動」よりずっと面白かったよ」と私は興奮して口を挟んだ。
 「舞台で動かずに座っているからといって、受動的だとはまだ判断できない」と先生は説明した。「動いていないのに本当は行動していることもありえる。外面的、つまり身体的にではなく、内面的、つまり心理的に。さらに、まれに肉体的に動かないことが内面的行動によって引き起こされることがある。創造においてこれは特に重要で面白いものだ。芸術の価値はその精神的な内容で判断される。だから私の格言をちょっと変えてこうしよう。舞台では行動する必要がある、内面的にも外面的にも。
 舞台における創造や芸術の積極性や活動を本質とする、私たちの芸術の重要な基本の一つがこれによって達成されるんだ。



 



 









 

 

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