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なぜ『やがて君になる』は「好き、以外の言葉」を必要としたのか――「小糸侑は無性愛者か否か」論争に寄せて

文: ネプヨナ

この記事は、2019年頃に韓国の大衆文学批評サイトTextreetで「小糸侑は無性愛者か否か」論争が起きた際に、筆者が「小糸侑は無性愛者ではない」と反駁するために書いた論考を、日本語の記事として独立に読めるように書き直したものである。

なぜ「好き、以外の言葉で」なのか?

『やがて君になる』アニメ版の第13話で挿入された曲「好き、以外の言葉で」の歌詞は次のように終わる。

君に言いたいこと
いつも心にメモしておくけど
声を聞いたらもう全部忘れてしまって
秘密の会話も
ありきりな言葉で埋まってしまって
どうしよう
何を言おう
好き、以外の言葉で

楽曲『好き、以外の言葉で』、2018年。

歌詞を表面的に読解すれば、いわゆる「友達以上恋人未満」の二人が、お互いに告白できないまますれ違う状況が表現されていると読めるだろう。『やがて君になる』の内容を熟知している読者であれば、「相手が自分を好きになると、その相手を好きでいられなくなる」という条件を抱える「七海燈子」に対して、まさにその条件を理解するがゆえに、主人公の「小糸侑」が彼女に告白できずにいるという状況のジレンマと、彼女自身の感情が表現されていると読むはずだ。

だが、私はここで、彼女たちには文字通り「好き、以外の言葉」が必要であったこと、そして、この歌詞がそのまま『やがて君になる』という作品を読み解くための鍵になることを主張したい。

では、「好き」という言葉のどこが問題になるのか。それは、『やがて君になる』が「ロマンチック・ラブ」そのものに対して疑問を投げかける作品だからである。

『やがて君になる』の第1話は、以下のような独白から始まる。

少女漫画や/ラブソングの/ことばは
キラキラしてて/眩しくて
意味なら/辞書を引かなくても/分かるけど
わたしのものに/なっては/くれない

仲谷鳰『やがて君になる (1) 』、KADOKAWA、2015年、3頁。

主人公「小糸侑」は、誰かを「好き」になったことが無い。つまりは「ロマンチック・ラブ=恋」をしたことが無いのである。誰かに惚れたことも無く、告白されても心が動かない。だからこそ、「相手が自分を好きになると、その相手を好きでいられなくなる」という「七海燈子」の奇妙な条件を理解して、彼女との「関係」を結んだのである。少なくとも物語の序盤では、彼女はそのように考えていた。

さて、先ほどの段落で、私は「好き」という言葉を「ロマンチック・ラブ=恋」という言葉にすり替えた。だが、これは読者を欺くための詭弁ではない。むしろ、その「すり替え」こそが、今まさに我々の中で発生していることである。「小糸侑」の独白の中にある「少女漫画やラブソングのことば」が何を示しているのか考えてみてほしい。「好き」や「大好き」という言葉。それらは「恋」の言葉として表現される。これらの言葉は「小糸侑」にとって、自分が経験したことのない領域に属する言葉だった。

このような感覚は、『やがて君になる』だけに特有のものではない。例えば、幾原邦彦監督は『ユリ熊嵐』を制作するに当たり、以下のような発言をしている。

〈幾原 例えば、「愛」について描きたいと思ったとする。今、男女のキャラクターで恋愛を描くのは難しいと思う。「愛」ということ自体が、男女の関係で描こうとした途端に、もう「ネタ」じゃないですか。(中略)でも、百合というジャンルに飛び込んで、メタファーとしていろんなものを表現すれば、愛は非常に描きやすい。現代で愛を描くには百合というジャンルはとても良いな、と思ったんです〉

https://www.excite.co.jp/news/article/E1421113187884/?p=2(孫引き)

幾原監督の発言をこの記事の用語で解釈すれば、「好き」について語ろうとすると、それは「ネタ」的な「恋」に回収されてしまい、表現しようとしたものとの乖離が生じる、ということになるだろう。そして幾原監督は、「男女のキャラクターで恋愛」をするとそうなり、「百合というジャンル」ではそうならない、と考えている。

換言すれば、「好き」という言葉が属する領域は、「恋」によって、難しい言い方をすれば「恋愛ロマンス」によって既に占領されていると言える。「好き」と言った瞬間に「秘密の会話」は「ありきたりな言葉で埋まってしま」う。「男女のキャラクターで恋愛」を描くときのように「ネタ」に回収されてしまう。だからこそ、「小糸侑」は今まで「恋」に相当する感情を抱いたことがないのであり、「小糸侑」と「七海燈子」の関係は、「好き、以外の言葉で」語られる必要があるのだ。

さて、この記事の目標は二つある。一つ目は、「恋」や「ロマンチック・ラブ」と呼ばれるものが、具体的にどのようなものか探ることである。そして二つ目は、『やがて君になる』という作品の中で、「好き、以外の言葉」がどのように具体化したのかを論じることである。

まずは「恋」や「ロマンチック・ラブ」と呼ばれるもののメカニズムを探ろう。

「恋」という規範

我々が「恋」と呼んでいるものは、そこまで長い歴史を持つものではない。もちろん、男女が愛し合うことや、結婚して家庭を成すこと自体は、大昔からあったことだろう。しかし、いわゆる「自由恋愛」が始まったのは「近代」という時代からである。それ以前の時代、結婚というものは家同士の間での子息の交換に過ぎず、必ずしもロマンチックな経験を伴うものではなかった。お見合い結婚や政略結婚などを思い浮かべると分かりやすいだろう。にも関わらず、何故、私たちは「恋」というものを「ネタ」として捉えてしまうのだろうか。

上野千鶴子の著作『女ぎらい :ニッポンのミソジニー』は、この疑問に対して有用な説明を提示してくれる。『女ぎらい』ではさまざまな問題が扱われるが、ここで注目したいのは「性愛の脱自然化」に関する議論である。上野はミシェル・フーコーの議論を辿りながら、「性愛」と「家父長制」が結び付いたのは19世紀にブルジョア階級が登場したことと深く関係していると説明している。以下では、多少、粗野な要約にはなるが、できる限りわかりやすく上野の議論をまとめてみよう。ここでは、上野が「性愛」や「エロス」と呼ぶものは、我々が「恋」や「ロマンチック・ラブ」と呼ぶものと交換可能であると前提しておく。

『女ぎらい』によれば、「性はもともと攻撃的なものだ」や「性は親密の表現である(べきだ)」といった言説は、時代という制約を受ける規範的なものに過ぎない。言い換えれば、もともと「性」はどのような性質も持たず、時代に応じて「性とはこうであるべきだ」と考えられてきたものである。我々の思考が、「男女のキャラクターで恋愛」をすることを「ネタ」として捉えてしまうのは、「異性愛で結ばれたカップルが夫婦となり、セックスをして子供を持つ」というブルジョア階級的な生活が「正当性を持つ」とされる「規範」の中で生きているからである。

それでは、なぜ私たちはその「規範」を「自然」だと思うのだろうか。上野はこう説明する。中世に存在していた宗教(神様)という大きな規範が失われ、自然の法則を客観的に究明する「科学」にその地位が代替されたのが、19世紀という時代だからである、と。科学に代表される近代的思考は性愛にも適用され、規範であるはずのブルジョア的な生活は、そのまま自然の法則に相当すると見做された。現在の科学では、同性愛は人間という種に特異なものではなく、また病理的なものでもないが、当時は「性愛」そのものが「科学」の範疇で分析され、ある正当性が与えられていたというわけである。

さらに、ブルジョア階級の核家族という形態が正当性を持つことで、「性愛」は社会的な領域から分離され、家庭の中に閉じ込められる。この「私秘化 Privatization」により性愛は特権化され、<どのような性行為をするのか>がその人の人格を表す指標となる。

『やがて君になる』の登場人物である「佐伯沙弥香」のエピソードを例にとり、この私秘化の問題を具体的に説明してみよう。

「佐伯沙弥香」というキャラクターは、主人公たちの中で最も早くレズビアンというアイデンティティーを自覚した人物である。彼女は「七海燈子」と同級生であり、好意を抱いているが、「七海燈子」が「自分を好きになる人」と距離を置くことを知っているため、自らの感情を抑えているように描写されている。

彼女は、中学生の時に女性の先輩と付き合った経験があるが、その先輩は「佐伯沙弥香」との関係から「卒業」している。再会した時、彼女は過去の関係を「一時期の迷い」と表現し、もし女の子を好きになったとすればそれは「自分のせい」であり、「普通の子」に戻って欲しいと「佐伯沙弥香」に言う。

再会の場面で行われる会話は、「恋」という規範がどれほど強いか、またそれがどれほど人間を規定するかを表している。先輩というキャラクターの言説の中では、女が女を好きであるということは、女が女と性的な行為をするということは、「佐伯沙弥香」を「普通の子」から脱落させるほどの出来事である。

ここで一つ、指摘しておくべきことがある。それは、たとえ先輩というキャラクターにとっては「恋」の真似事に過ぎなかったとしても、彼女自身が「佐伯沙弥香」と関係を結んだ事実は変わらないということである。もちろん、彼女は自分が「普通」であること、規範の内側の存在であることを強く意識し、「佐伯沙弥香」との経験を一時的なものとして安全圏に追いやろうとしている。だが、そこにこそ、亀裂がある。

彼女の論理を辿ると、彼女自身、「一時期」は正常ではなかったと認めていることが分かる。また、自分だけではなく、「佐伯沙弥香」も正常側に戻ることができると彼女は言う。彼女の論理では、人は「正常」と「異常」の間を行ったり来たりすることができる。これはつまり、同性愛を「真似」して「学習」するのと同じプロセスで、異性愛が「習得可能」であることを意味する。このような論法は、性的指向に関するこれまでの科学的説明と反するが、しかし同時に、「自然なもの」としての異性愛の特権的地位を揺るがす。

この亀裂を埋める、見えない前提とは何か。それは、性愛が家庭=私的な関係の中のみに閉じ込められるべきものであり、公的に論じられるべきものではないという、性愛の私秘化の論理である。「佐伯沙弥香」という人格が「普通」か否かは、「どのような性行為をするか」という基準で判断される。これは、性愛というものが完全に個人の領域に属するからであり、個人を表すものだからである。先輩が「佐伯沙弥香」の性的指向を「自分のせい」だと断言できるのも、その「私的な関係」だけが性的指向を形成するからである。

さて、『やがて君になる』の興味深いところは、「恋」や「恋愛ロマンス」のメカニズムを告発するだけでなく、「恋」によって独占された「好き」という言葉では表現できない関係を探求し、それを提示しようとしたことにある。次の節では、このような「好き、以外の言葉」がどのように具体化されているのか論じる。

循環による「恋」からの解放

「七海燈子」を中心とすれば、物語の軸となるのは「小糸侑」と「佐伯沙弥香」という二人のキャラクターである。だが、この二人を論じる前に、もう一人のキャラクターを分析する必要がある。それが「槙聖司」という人物だ。

「槙聖司」は「小糸侑」と同様、生徒会に所属する男性の新入生であり、「小糸侑」と「七海燈子」の関係を目撃したことで物語に積極的に参加することになる人物である。我々は、いまだに「恋」という規範が強く作用している現実世界において、規範を外れた者には(それが不当なものだとしても)厳しい処罰が待ち受けていることを理解している。故に、『やがて君になる』を読んだことのない者は、「槙聖司」が彼女たちを脅迫するような展開を想像するかもしれない。しかし、『やがて君になる』はそのような展開を選ばない。

「槙聖司」と「小糸侑」は、「恋」という感情を抱いたことが無いという点で共通するキャラクターである。たとえば「槙聖司」は、「小糸侑」と同様に異性からの告白を拒否している。しかし、彼自身は「恋」に興味が無いわけではない。「恋」を経験したい「小糸侑」とは対照的に、「槙聖司」は徹底的に「恋愛」の観客であろうとする。

この対比を具体的に取り上げた研究がある。松浦優の「アセクシュアル/アロマンティックの多重見当識=複数的指向――仲谷鳰『やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」だ。この論文における松浦の狙いは、「アセクシュアリティ(無性愛と呼ばれる)」を「セクシュアリティ」=「性愛規範」の反対側に置くことで失われる、多様な性的指向や関係の在り方に目を向けることにある。同時に、松浦はそれらがさまざまに「非セクシュアルなもの」としてスペクトラム上で表現されうる可能性を、『やがて君になる』という作品の中に見出すことを目指している。

松浦の議論を簡単に要約すれば、『やがて君になる』という作品は、メインキャラクターたちの成長を通じて異性愛規範、つまりはこの記事でいうところの「恋」の規範に対する拒絶を描きつつ、「槙聖司」というキャラクターを登場させることで、性的規範そのものを相対化することに成功しているという。さらに「槙聖司」を「観客」と位置付けることで、この作品は「恋愛をしたいという欲望」=「する」から分離された「恋愛に対する欲望」=「見る」を表現すると同時に、観客と舞台上の役者との間にあるダイナミズムを描くことも実現している。

「槙聖司」という人物は、『やがて君になる』という物語の中から排除されているわけでも、彼女たちとは別の次元に存在するわけでも、安全な場所から観察をするキャラクターとして描かれているわけでもない。彼自身、異性愛者から同質性を求められたり、「恋愛をしたいという欲望」を抱く「小糸侑」から同質性を求められたりすることがある。だが彼は、観客としての自分の位置を理解し、「役者」からのそのような要求を拒絶する。

この記事の言葉で言い換えれば、松浦の議論は、「ロマンチック・ラブ=恋」の規範を相対化することで「好き、以外の言葉で」性愛の在り方を描いた作品として、『やがて君になる』を評価しているとまとめられるだろう。だが、ここで私が興味を持つのは、観客の「槙聖司」がそのように振舞うことで、役者である「小糸侑」に対して影響を与える、という事態である。役者たちの要求を断ることで、「槙聖司」は「小糸侑」との関係を明確にするだけでなく、「小糸侑」と「七海燈子」の関係を進展させている。このことは何を意味しているのだろうか。

ここでもう一つ、『やがて君になる』を研究した論文を参照したい。川崎瑞穂の「百合と紫陽花 — アニメ『やがて君になる』第8話の範例分析 — 」である。川崎の論文は構造主義に基礎付けられており、その狙いは紫陽花の意味(=シニフィエ)を解明することではなく、どのように「交換」されているのかを明らかにすることにある。川崎が注目しているのは「何色の紫陽花が好きか」という作中のセリフだが、要するにこの論文は、紫陽花の花言葉や主人公たちが好きな色を分析するわけではない。むしろ、誰が誰に対してその質問をしたのか、どのような状況で質問したのか、どのように、何と何が交換されているのかを分析する。

この質問は、まず「七海燈子」から「佐伯沙弥香」に対して、次に「佐伯沙弥香」から「小糸侑」に対して為される。最後に「小糸侑」は「七海燈子」に対してその質問をするのだが、「七海燈子」はそれを聞く前に眠ってしまう。

川崎は人類学者レヴィ・ストロースを引用しながら、これらを「パロールの交換」と見做し、その交換の類型に関しては、「集団A→集団B、集団B→集団C、集団C→集団A」という形で行われる「一般交換」と見做している(ちなみに、集団AとBの間にだけ行われる場合は「限定交換」と見做す)。また川崎は、交換という行為には返礼が伴うと主張する。川崎によれば、まず「七海燈子」は、「佐伯沙弥香」が彼女の腕に縋ることで示した「好意」に対してこの質問をする。次に「佐伯沙弥香」は、「小糸侑」が食事中に渡してくれたポテトフライへの返礼として、もしくは運動会で渡されたバトンへの返礼としてこの質問をする。最後に「小糸侑」は、「七海燈子」からの好意に対してこの質問をする。

「佐伯沙弥香」と「小糸侑」は本来であれば互いに恋敵であるはずだが、彼女たちは同時に、同じ生徒会という共同体に所属するメンバーでもある。故に、その共同体を維持するという義務を遂行するために、彼女たちはこの交換に参加したと川崎は分析している。だが、共同体に参加するということは、共同体の秩序にしたがうことであり、共同体の中にある権力関係に組み込まれることをも意味する。「七海燈子」にとって「他人が自分を好きになる」ということは、「他人から何かを求められる」ということと同じである。「好き」を与え合う「贈与の権力」を拒絶するがゆえに、彼女は「何色の紫陽花が好きか」という質問を聞き取ることができない。

川崎の論文では直接論じられていないが、この解釈に従えば、同じ共同体の構成員として同じ秩序に置かれることを拒否する「七海燈子」に対して、「小糸侑」がその共同体が維持しようと行動することに、『やがて君になる』のテーマがあると推測するのは無理ではないだろう。

興味深いのは、ここで川崎が「愛」の話をしていることである。「小糸侑」が、人を好きになるという感情を「持っていない」ながらも、何かを与えようとする立場にあることに川崎は注目し、次のように論じている。

もっとも、根本的な問題として、「好き」の一般交換が「解決」となっていることは説明が必要である。「好き」は個人間において「限定交換」されるものと思われがちだからである。ラカンは「愛」を「愛する者 amant /愛される者 aimè」の結合に由来するものとした上で、「愛とは持っていないものを与えることだ」という有名なテーゼを出しているが、さらにジジェクはそこに「それを欲していない人に」と付け加える。これこそが『やがて君になる』(とりわけ第8話)のメッセージであり(中略)これにより、三者の「一般交換」は強固なものとなる。

川崎瑞穂、「百合と紫陽花 — アニメ『やがて君になる』第8話の範例分析 — 」
『比較文化研究』145、日本比較文化学会、2021年、47頁。

「恋」の規範が「私秘化」であったことを想起してほしい。「佐伯沙弥香」の先輩が想定していた「好き」は、まさにそのような「限定交換」に留まるものであった。この分析に従えば、『やがて君になる』はこうした「好き」の前提を崩壊させる形で「愛」を描いたと言えるだろう。

「小糸侑」に対して応答する最終巻で、「七海燈子」は「佐伯沙弥香」から告白された際の言葉を引用している。ここでは「佐伯沙弥香」から「七海燈子」を経て、「小糸侑」への交換が行われている。

この議論はさらに拡大することができるだろう。「槙聖司」が「小糸侑」にそうしたように、「佐伯沙弥香」が「七海燈子」に告白したのは、大人たちのアドバイスによるものである。『やがて君になる』で描かれている「愛」は、二人だけの私的なものを超えて、公的な領域へと接続されている。

「好き、以外の言葉で」話すためには、二人だけの会話では不十分である。最も私的な会話である「秘密の会話」であったとしても、それはすぐに「恋」という規範に囚われてしまい、「ありきたりな言葉」へと変質してしまう。「恋」から解放されるためには、二人だけの閉鎖的な空間ではなく、もっと大きな循環が求められる。

ただし、「恋」の規範もまた共同体の産物であることを忘れてはいけない。「共同体」の内側に住むために、「佐伯沙弥香」の先輩は彼女との関係を「一時期の迷い」として片付けようとしたのだろう。重要なのは、共同体を維持しようとすること、それを拒否する者とも循環を成そうとすることである。それが「好き、以外の言葉で」語られる「愛」であることを、『やがて君になる』は私たちに伝えている。

参考文献
――上野千鶴子、『女ぎらい:ニッポンのミソジニー』(韓国語訳、『여성혐오를 혐오한다』, 나일동 訳, 은행나무,2017)
――川崎瑞穂、「百合と紫陽花 — アニメ『やがて君になる』第8話の範例分析 — 」、『比較文化研究』145、日本比較文化学会、2021
――松浦優、「アセクシュアル/アロマンティックの多重見当識=複数的指向:仲谷鳰『やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」、『現代思想』49、青土社、2021

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