うとQ世話し「リア充」再考

2021/3/9
(うとQ世話し「リア充」再考)
暫く前の記事で「リア充」に関する事を少し書いたのですが、想像以上に多くの方の購読があったようです。
それで本日は今少し「リア充」について書いてみたいと思います。
前の記事でも申し上げました様に「リア充」(リアル生活(人生)が充実している事)自体は全く悪い事ではありませんし、むしろの我々の生活や人生がそうあったらとても素晴らしい事だと思います。
で、ここからが本日のお話。
我が国では、お金持ちであるか否かに関わらず、人々が「自分以外の人間がそれを持っている事に対して最も羨望し、それが自らの手に入らないとなると最も「嫉妬」するもの」は、上述の「リア充」なのではないかな?
というのが本日の記事が提示する「仮説」です。
その現象としては
自分以外の人間が「リア充」であると苛立つ。認めない。欠点を探して揶揄する。
その反面、対抗意識とでも言うのでしょうか
自分が「リア充」である事を「さりげなく」を隠れ蓑にして、
その実実態は「大々的アピール」
という例が散見されます。
此処で重要なのは「何故か「本当にリアル生活(人生)が充実した、まっとうな意味での「リア充」を探す方向には向かわず」ある種の代替品(言い方が変かもしれませんが「リア充ショー」の演出)へと向かってしまっている事です。
何故この様な「一種の掛け違い(足の踏み出し間違い)」が起こるのか?
それを考えてみたのですが、
「まっとうなリア充を求めて動き出す「設定ハードルの初期値」が高すぎる(或いは自ら高く設定しすぎている)事から来る重圧感により無意識にその選択肢を鼻から棄却してしまっているのではないか?」
という推測が生まれました。
もう少し具体的に申上げますと
求める「まっとうなリア充」を手に入れる為には
「お金がなくてはならない」
「国家資格を取らないといけない」
「自他共に認める実績を打ち立てなくてはならない」
「誰もが知っている著名な職場(公私いずれの企業でも)に職を得なくてはならない」
「スタイル抜群でいい男、いい女でなくてはならない」
等、本来「最終目標(その最終目標が妥当であるか否かは別にして)」であるものを、又は最終目標としての達成すら出来るかどうかも分らないレベルを、なんとスタートラインについた時点で「事前に兼ね備えていなくてはならない」
それが出来ない事には「スタートすら出来ない」
という全くの勘違いや「目的と目標」の掛け違いをしているのではなかろうかという気がして参りました。
自分は中学生時代、剣道をやっておりましたが、その時の経験から申しますと
「剣道がうまくなりたいから入部した」筈が「入部するには、その資格として既に段位を持っていないといけない」
という錯覚をしていないでしょうか?という事です。
その錯覚の元は、
「格好良く見せるには」
という最深層部での目的の勘違いだったのです。
自分が主ではなく他人目線が主だったのです。

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