(うとQ世話し 心理は認識の産物である)前記事前編・後編完全改題、書き直し版

2021/9/28
(うとQ世話し 心理は認識の産物である)前記事前編・後編完全改題、書き直し版
以前の記事で
「人間は心理の生き物である」
と書きましたが、心理というものはある意味「認識の産物」かもしれません。
と言うのも物事に対する認識如何によって我々人間の心理が大きく異なる事が見て取れたからです。
例えば
「自分の航路は常に右肩上がりの一直線だ」
と言う認識でいる人(それを口にするかどうかではなく、深層心理の中でそう思ってしまっている人)と
「自分の航路は行ったり来たりの紆余曲折が普通だ」
と言う認識の人とではコロナ禍の様な困難に直面した際の心理状態がまるで違ってくる。
前者に生じやすい心理は「苛立ち」「困惑」「不安」「大失望」そうして自分以外を呪ったり、奴当たったり、恨んだり。
一方、後者の心理は、勿論余裕など抱きよう筈もありませんが、意外に落ち着いていられる。
と言うのも、前者に比べて後者の方が、自分が日頃「認識している常態(ノーマル)」と実際今、目の前で起こっている事の落差がかなり少ないからです。下る階段の段差が、前者は足を踏み外してしまいそうな程急なのに対して、後者は緩やかだからです。
起きている事象は同じにも拘わらず、それ迄に抱いている「認識如何によって」心理状態にこの様な差が生じるのを何度も目にしました。
又、これはコロナ禍に限った事でもなさそうです。
卑近な例で説明しますと
家庭内でちやほや育てられた子供が突然、ちやほやしてくれる筈のない社会にでた途端に拒否反応を示すのと
家庭内で、時には叱られ、時には褒められた子供が、社会に出て「叱られる」と「褒められる」との比率配分こそ違え、叱られる事自体は想定内なので拒否反応迄には至らない、
との差。
つまり大きな災厄の場合にだけ起こるのではなく、日常茶飯にこういった「認識如何に依って生じる心理の差」は至る所で起こっているのではないでしょうか。
ではどのようにしたら、この自分が思っている「常態」と「現実に生起する事態」との段差、落差を減らす事が出来るのでしょう?
答えは「(自分の)常態を何処に置くか」です。
換言すれば「(自分の)常態は是である、と言う認識の仕方」です。
そしてその「認識すべき常態」は決して自己都合に基づいた希望的観測や背伸びしまくったものではなく、派手さはなく地味ではあるがしっかりした根拠を持った道理(物事の自律的メカニズム)に基づいたものでなくてはならないでしょう。
では、何故(自分の)側に置くかと云えば
殺生与奪の権利を相手側(現実側)に持たせるより、自分の側に持たせた方が安心、安定を図り易いからです。

「現実(生起する事実)」を変えるのは大変ですが、自分を変えるのはそれより遙かに実現可能性が高いからです。
この様にして得られた認識に基づく「常態」を押さえてさえおけば、その産物である「心理」はかなり落ち着かせる事が可能な様な気が致しております。


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