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多数派に負けない

大多数のひとがやっていることに違和感を覚え、なおかつそれを口にすることができるひとがいる。
たとえば、みんなが盛り上がっているのにそこに入っていけないとか、そもそも学校や会社になじめないとかいうことを、強がりでもなく、斜に構えているのでもなく、ただ自覚していることを隠さずにきちんと言語化できる能力のあるひとだ。

昔っからそういうひとのことをすごいと思っていた。正直で感性が鋭く、強さがある。そういった、多数派に迎合しないひとを尊敬していた。

わたしは子どものころから、自分が多数派に合わせなければいけないと思っていた。どうにかして「普通」になろうとしていた。
「変わってるよね〜」と言われることもわりに多かったけど、面と向かってそう言われる場合は、半分くらいはほめ言葉だと思っていい。多数派から外れない程度に、多数派にいるみんなが許せる範囲において、ほんのちょっとだけ個性が際立っているというだけのことだ。
ほんとうに変わっていると思われていたら、本人には言わず、陰で言われているだろう。

小学校高学年あたりか、中学生になったころからか忘れたけど、そのころから、どうやったら「普通」になれるだろうということばかりを考えていた。
自分は凡人であることは確かだ。だらか普通といえば普通なのだ。
でも凡人にだってそれなりに個性はある。純粋に多数派に属することができる部分もあれば、そうはできない部分もある。

それはたぶんみんなも同じで、それぞれ多数派である部分、少数派である部分はあるはずだ。
でも、周りのひとを見ていると、そのひとのすべてが多数派であるように見える。彼らはどんなことに対しても違和感を持たず、いつも多数派のなかにいて、なんの迷いもないんだろうなと思っていた。
これは決して皮肉や軽蔑ではなく、それがいいことなのだとわたしは本気で思っていて、自分もそうなるべきなのだと思っていた。

社会人になっても、わたしは多数派を目指していた。
おかしいと思うことでも、そんなの当たり前、ビジネスにはこれこれこういうことが必要、などと言われれば、それを常識と捉えていない自分が未熟なのだと思った。学生とは違う、社会とはこういうものなんだからはやくそれに慣れなければいけないと思っていた。
はやく常識のある多数派になりたくて、「常識」に自分を合わせていくうちに、おかしなこともおかしいと思わなくなっていった。
わたしがエリートだったら、記者会見で頭を下げるような不祥事を犯していただろう。エリートじゃなくてよかった。

気がつけば、自分がなにをしたいのか、なにを正しいと信じて行動するのかがまったくわからなくなっていた。
基準は自分の外側にしかなかった。自分のなかの純粋な感覚が麻痺し、違和感に気づかなくなっていった。

前回も書いたけれど、それが大多数の常識であったとしても、それに従って幸せか? ということを自分に訊き続けることで、おかしなことはおかしいと思うようになるし、おかしなことに自分が従う必要もないことがわかる。
逃げることが今の自分に必要だと思えば、逃げればいい。逃げないほうが今の自分に必要だと思ったなら、もうちょっと頑張ればいい。今の日本にいる限り、それで命取られるわけでもないのだ。
そんな判断能力すら、わたしのなかから失われていたみたいだ。

基本的に人生において後悔はしないんだけど、多数派だろうが少数派だろうが、自分が思う正しいことを信じるように生きてくればよかったなと思った。
そうすれば、大きな枠での自信が持てて、それがあれば虚栄心も不要になり、それ故もうちょっと優しい人間になれたかもなーと思うのだ。
まあ、でもこんなんでも半世紀近く生きられるものなのね。

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