見出し画像

「多様性」と理解

先だってこちらの映画を観てきた。

世の中で当たり前とされている感情や欲望がない主人公自身や、その周囲に起きるあれやこれやの話だ(雑すぎてごめんね)。

とくに性的マイノリティなどではなくても、多くのひとは自分のなかにマイノリティと感じる部分をもっているんではないかと思う。
理解が真に進んでいるか否かはべつとして、いろいろなひとがいるんだよという認識が広まりつつあるのはよいことだと、昭和生まれのわたしはつくづく思う。まっさらなところでわかってもらおうとするよりも、土壌があるところでそうしたほうがまだマシだから。

さて、あることがらにおいて自分がマジョリティの側にいるとき、マイノリティと思われる相手を前に、自分は相手をどうとらえているのか。
「どっちがいいとか悪いの問題ではない、あくまでも多数派・少数派の違いでなんだよ」ということは頭では理解していても、自分はほんとうに相手をフラットに眺めているんだろうか。

10歳前後くらいまでは自分がフラットにものごとを見ていた記憶がある。ただ単にぼーっとした子どもだっただけかもしれないけど。でも口が達者な周りの子たちはそうじゃなかった。
たとえば、納豆に生卵を入れると言ったら「気持ち悪い」と言われた。そういう些細な、たかが食習慣についても自分と違うことを受け入れられない子どもがけっこういた。大人になってみればわかると思うけど、納豆に生卵なんて普通だし、納豆に砂糖を入れるひとだっているんだよ。
わたしは奥手で口数の少ない子どもだったけど、あのくらいの年齢のおしゃまな子たちはとにかく思ったことをすべて言わないと気がすまないらしかった。自分とは違うことを受け入れられなくてもいいけど、そのことを黙っているということができない子たち。大人でも黙ってられないひとはいるか。

些細なことでも、こうした他者からの「えー、信じられない!」が積み重なると、自分と違うひと/ことを目の前にしてもなにも感じずにいることがおかしいんではないかと思うようになる。
奥手であること自体も「よくない」し、もっと「活発」にならないといけないというプレッシャーを親や先生から感じていたし、そうじゃないと現実的にいろいろやりづらいので、奥手を克服する流れで自分も「信じられない!」を言うような人間になっていった。黙っているといつまでもなめられると思ったし。(高倉)健さんのように黙っていることで他者を圧倒するような力をもつのは難しかった。

こんなことしていると、自分のなかのマイノリティな部分も存在しないことにしたくなる。一生懸命周りに合わせて振る舞い、自分に合わないことを一生懸命していた。
若い頃に自分の意志を自分でちゃんと確認しておくべきだったと思う。
現代社会に生きていると、それが自分の価値観かどうかを判断するのってけっこう難しい。周りのひとやメディアに非常に影響されやすい。
クリスマスは彼氏と一緒にいて、かつ素敵な場所にいなければ恥ずかしいとかね(これは今でもそうなのかな)。
でも、それが本当にうれしいのか、TVドラマかなにかで見て刷り込まれた価値観なんじゃないのか。ゼロからそういう光景を想像して憧れることってあるんだろうか。

それと同じでいろんなひとがいるのは当たり前だし、あらゆることに偏見をもつべきではないというのも、真に自分の価値観じゃないかもしれない。
でも、多様性の認識がある土壌の方が自己開示をしやすいのと同様に、偏見をもつことがよろしくないということを知っていることは前提として必要だと思う。それすら知らないひとは平気でびっくりすること言うからね。

かと言って、多くのひとと違う現象をなんでもかんでも「なんちゃら症候群」等にするのは、結局それが「普通ではない」ということを意味するから、いろんなひとがいるということへの理解を進めるにはいいし、なにかのときに説明しやすいというメリットもあるけど、やはりマジョリティの側からの上から目線的なものを感じる。

***

多様性に限らず、他人のことを理解するなんて本当にはできないと思うけど、想像することはできる。そこから共感や同情が生まれてくるのだと思う。仮に理解できたとしても、相手が理解してくれたかどうかを確認する術はない。だけど、話にちゃんと耳を傾けてくれ、こちらの気持ちを想像してくれただけで、わたしはうれしい。
うれしいけど、でもそこに勝手な思い込みは挟まないでほしい。
冒頭の映画でも主人公が家族に自分の事情を話すと、「じゃあお姉ちゃんは○○なんだね」と決めつけられるシーンがあるのだけど、こういうのが一番きつい。
単に「Aではない」と言っているだけなのに、なぜ「AではないならB」となってしまうのか。提供された情報だけ受け取って! 余計な解釈しないで! と言いたくなる。

やはりフラットにものごとを見るのは難しいんだろうか。
よく人間関係でも発された言葉を裏読みして真実どうかわからない物語を創造し、わざわざ不愉快になっているひとがいる。でもそのひとはそういうのがきっと好きだからそういう選択をしたんだと思う。相手が悪者だと自分が被害者になれて、そのほうが楽だからかな。
あらやだ、わたしもひとの行動を裏読みしちゃってるわ。気をつけなくっちゃね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?