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ことばを止めると汚れがたまりますよ

シェアハウスに住む友人が愚痴っていた。トイレットペーパーを使い切った後、だれも新しいのをセットしておいてくれないんだと。
確かに、ないのに気づかないまま用を足しちゃったらちょっと困るもんね。
でも、友人はそのことを同居人たちには言わないらしい。「細かいひとだと思われるのがイヤだから」なんだって。
それを聞いて、ひとに対してどんなことばを発するか(あるいは発しないか)というのは、どう思われたいか/どう思われたくないかとイコールなのかと、今さらながらガッテンしたのだ。ありがとう、友だち。

怒りや悲しみでものすごく感情的になっちゃった場合は、どんなことばを発する/発しないかなんて考えてられないと思う。
言っていいことも悪いこともぶわわーっと出てしまって、あとで後悔するの。にんげんだもの、しょうがない。

一方、冷静なときは、人間っていろんな計算をして会話をしているみたい。
そういえばわたしも、それほど親しくない目上のひとに対しては、計算して会話している自覚がある。
じいさんの話に興味もないけど、「すごーい」とか「すてきー」とか言わないといけないような気になって、そんなことは酒でも飲まなきゃやってられなくなり(飽きてくる)、そして次の日がつらいといういいことが何もない徒労。若くても、万が一そこそこ美人でも、キャバ嬢にはぜったいになれなかった。

その程度の、いわば社交辞令的な会話は、時と場合によってはあってもいいと思う。でも、それが常態化してしまうひとも結構いる。とくに働く場ではそういうひとは多い。あたりは柔らかいけど、なんとなくうさんくさいひとが部署に一人くらいは必ずいた。
社会に点々と置かれている針の山をうまいことよけて生きるために必要な技術を駆使して、長年それでうまくやってきた成功体験が、彼らをそうさせているんだろうなと勝手に推測する。決して彼らの根が腐っているわけではないはず。
でも、一生懸命いい感じに思われるように振る舞っているのに、信用されなかったり、左遷されちゃったりというのを見てきて、嘘は必ずやバレるのねって、ひとをそうそうバカにしてはいけないと思った。

相手を傷つけないことも一般常識として大事なんだろうから、言いたいことをなんでも言えばいいというわけではないんだろう。
でも、こう思われたい/こう思われたくないという、ちょっと不自然な理想像が本当のことばを止める、あるいはことば自体を止めてしまうような気がする。
日の目を見なかったことばたちはネガティブなもの、たとえば不満になって、そのひとのなかに沈殿していく。そのせいか、本当のことばを発しないひとはウラもオモテもある二重人格が多い。だから信用されなくなる。

こうやってこの世のみんなが自分の本当のことばを止めて、安全なことばだけを発するようになったら、会話がこの世に存在しなくなるんだろう。言っても言わなくてもいいおしゃべりは残るだろうけど。どっちがいいのかな。

んで、そんなえらそうに言っているわたしが、ことばを止めていたいちばんの相手は母親だ。
その結果、恨みつらみがわたしのなかで沈殿して、パイプ詰まりを起こしている。彼女のことを思い出すといつも、外に放出できない汚れが心に溜まっていることに気づく。そろそろ大掃除の時期ですよ〜。

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