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偏見があるとき

彼女に偏見があるのをあたしは承知している。[……]でも彼女は公平だった。それだけでいい、そのことを尊敬している。
(藤本和子 『ブルースだってただの唄』、ちくま文庫、p. 161)


偏見はもたないほうがいいと思うけど、人間の心は自分自身でもそうそう自在にコントロールできない。
たとえばポジティブシンキングとかいうのがあるけれど、ネガティブな心情を見ないふりして無理やりポジティブに変えようとしているだけで、もちろんそれが必要かつ有効な場合もあるだろうけど、申し訳ないが大方は自己欺瞞だと思う。
「あー、もうくよくよしててもしょうがない!」と思って気持ちを切り替えるようなことは自然だけど、自分の感情をねじ曲げるのは不自然だ。

多かれ少なかれ偏見が心に発生してしまうのは人間にとって避けられないと思う。そうしたくないと思ってもできちゃったものは取り消せない。
それは誤った知識に基づく誤った認識、あるいはある体験をある対象に一般化したり、または間違って結びつけてしまうといった誤った行動から来ているのだと思う。
だから偏見の前提となる誤りを修正することが必要なのはもちろんだけど、もってしまった偏見を表面化させないことも必要だ。
一度思ってしまったことは取り消せないけど、それを心のなかに留め置くことがどうしてできないのだろうかと、差別的発言がなされたなどといったニュースを見るたびに思う。

子どもが意図せず、あるいは本人が意図した以上に残酷にクラスメートなどを差別するのは、知識が十分にないことに加えて、言って(やって)いいことと悪いことの区別、言い換えればそれを言ったら(やったら)相手がどうなるかということがまだよくわかっていないからだと思う(なかには意図的にやる子どももいるかもしれないけど)。

発生してしまった偏見を留め置くことができるってことは、一つには自分の認識が誤っているという自覚があるということなのだけど、差別するひとたちは自分の認識が正しいと思っているか、それすら考えていないから、平気で差別してしまう。
たとえ自分の認識(偏見)が正しいと思っていたとしても、その差別行動によって相手がどうなるかを想像するという心のはたらきがあれば、偏見を心のなかに留め置くことは可能なはずだ。偏見を差別的行動として外に向けて表してしまうひとたちは、精神的にまだ子どもなのかもしれない、とか思ったりする。

わたしが高校生くらいの頃は「お父さんのパンツと一緒に洗濯しないで!」ということが社会の話題になっていた。
これも明らかに誤った認識でお父さんを偏見の眼差しで見た結果の差別発言だ。もしかしたらパンツを一緒に洗濯しても自分のパンツが汚れるわけではないのをわかっていて、意図的にお父さんを意図的に貶めている可能性もあるけど。
ちなみにわたしはお父さんのパンツ云々は言ったことがない。べつにそういうことがよくないとか思っていたわけではなく、洗剤で選択すれば一度生地から離れた汚れは再付着することはないという知識があったからだ。

とはいえわたしだって偏見を抱くことはままある。アメリカやヨーロッパの一部の国でアジア系のひとたちに対するヘイトクライムが起こっていると聞けば、欧米人を一括りにして、彼らって短絡的で乱暴なのねなどとつい思ってしまう。

一人の個人に対しても、わたしに対して意地が悪いからといってそのひとが全体的に悪人とは限らないけど、速攻で「いやなやつ認定」してしまう。
わたしに対する意地の悪い行為は検討の対象となるかもしれないけど、相手のその行為だけでそのひと全体のことは決められない。大量虐殺を指示した独裁者でも、家族に対しては善人だったりするし(だからといって虐殺行為が許されるわけじゃないし、いじめも同様)。
かといって、どのひとにもいい面と悪い面があるからと言っていたら社会は成り立たないので、そのために国家には法律があり、人々には知識や良識や常識やコミュニティのルールといったものが求められるんだろう。


冒頭に引いた文章は黒人女性が言ったことばだけど、わたしが常々考えていたことが表現されていると思ったので載せた。

人間は常に安全な高台のようなところにいたくて、そうやって常に少し上から他人を見下ろしていたいんだなと感じることがある。差別とまではいかなくとも、小馬鹿にするとかなめてかかるとか。
偏見をなくそうという前に、だれとでも対等で向かい合うときどれだけ自分自身を保てるかという強さがほしい。


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