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何に従うのか

人間の条件』を3分の1くらいで挫折してしまった経験があるので、読み終えられるとは思っていなかったけど、ハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』は1週間くらいで読めてしまった。
斜め読みでいこうかと思っていたのに、ほぼ全部を夢中になって読んだ。アメリカの雑誌に連載されていたらしいので、彼女の他の著書に比べたら読みやすいのかもしれない。

アーレントは政治哲学者だけども、この本の9割方は起こったできごとを述べていて、歴史を知る意味でもとても興味深かった。
ナチス・ドイツのことになると、ナチおよび彼らを支持したドイツ人対迫害されたユダヤ人みたいな図式になっていたのだけど、ことはそう単純ではなかったことをこの本によって知った。
その結果、今までは、自分がドイツ人だったらどういう行動を取るかということしか考えたことがなかったけれど、もし迫害されるユダヤ人だったらどうしたんだろうということも考えるようになった。
連行されようとしたとき、あるいは収容所で抵抗したり逃げ出したりしただろうか。ナチに協力したユダヤ人の偉いひとがいたらしいけど、自分がそのひとだったらどうしたか……。

ところで、もし自分がドイツ人だったらという想定しか今までなかったのは、自分がマジョリティに属していると認識しているせいだと思う。日々のぜんぜん小さいことでちょいマイノリティ感を感じることがあるくせに、基本的にはマジョリティで、迫害される側になるなんてちっとも思っていなかったのだ。
そして、迫害のようなことが起こったときに、マジョリティにいる自分は善悪を判断できるのか。というか、善悪という存在を忘れずにいられるのか、ということが常に頭の隅にあるような気がする。

当時のドイツのように、民族にかかわる大きな問題でなくても、学校や会社などでいじめやハラスメントのようなことが起きたときにも思う。自分がいじめられる側ではない場合に、どう行動するかということを。
たぶん、ジャイアンに異議を唱えることは現実的に良い結果を招かないなどといった理屈をつけて、何もしないことを「善」としてしまうだろう。道徳的に見たらどう見ても「善」ではないのに、屁理屈と自己欺瞞によって自分の行動を「善」としてしまう可能性が高い。(でもアーレントは、必ずだれかが生き残ってそれを語り継ぐから、現実的に良い結果を招かないことはありえないと言っている)
だからわたしは、ナチに協力して生き延びたユダヤ人のことも、彼らが本心はどのように思っていたかは知るべくもないけど、行動としては理解できてしまう。

当時、国をあげてユダヤ人を保護しようとする国もあったらしいが、そういった環境であれば、わたしは喜んで手助けするだろう。
要するに、わたしのような者は、アーレントによれば結局は小役人でしかなかったアイヒマンと同様に、身を置いている社会によってどんな人間にでもなり得るんだと思う。

だからといって開き直っているわけにもいかないので、そういった自分の特質を前提としながら、自分が今、社会環境ではなく、自分のなかにある何に従って行動しているのかということだけは常に感じ取れるようにしておく、それが思考というものなのかもしれない。

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