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自由と引き換えに自由を手に入れる

今日は午前中に映画を観てきた。日曜日早朝の霞が関は人も車もほとんどない。日比谷公園もひとはまだまばらだった。

9時ジャストのスタートだったのだけど、すいているかと思いきや映画館のロビーにはけっこうひとがいて、そのほとんどは同時間に始まるエヴァンゲリオンの観客だったようだ。
エヴァンゲリオンもいいらしいけど、わたしが観た映画もほんとうに素晴らしかった。今年初の自分ランクインだ。

11時頃に終了し外に出ると、街はすっかり活動していた。映画館の入っているビルの1階にあるおしゃれカフェレストランは長蛇の列だし、日比谷公園にも家族連れなどがたくさん出ていて、園内の老舗レストランも人が並んでいた。
だけど、公園の霞が関側の入口近くにあるカフェはほとんどだれもいなかったので、とくに喉も乾いていなかったけど、ここのテラス席でカルピスを飲んだ。

みんなそうやって思い出をつくってるんだなと思った。空腹を満たすためならなに食べたっていいはずだけど、大切なひととせっかくだからおいしいものとか雰囲気のいい場所で食事をしたという経験を積み重ねているのかもしれない。
だからわたしだってこの気温とかこの風景とかを味わっておきたくて、とくに飲みたくもないのにカルピスを飲む。

お金や物はあの世にもっていけないと言うけれど、じゃあ思い出という形になった経験は持っていけるのだろうか。
むしろ経験のほうがそのひとのなかに残る寿命がもしかしたら短いかもしれない。認知症になっても物は残るけど、経験は記憶の彼方に去ってしまうかもしれない。あるいは内容がぜんぜんちがうものになってしまうこともある。(結婚)指輪は輪になっているから愛は終わらないと言ってたけど、そんなことはない。愛だって終わったり、経験と同じように忘れ去られたり歪められたりする。

たまに広告で「物より経験!」とかいうのを見かけるし、物より経験にお金を使ったほうが幸福を感じると言う研究者もいる。
物に囲まれた病室で死に向かってベッドに横たわっているよりも、最後まで動いて、できれば美しい環境のなかで死ねたほうがいいだろう。でも、現代人がそれを実行することは困難が伴うし、ある程度の覚悟もいると思う。わたしたちはとても不自由なのかもしれない。

この現代社会では、自由になる(何から?)のは難しい。仕事に縛られたくないという理由だけで自由になるのはほぼ不可能だ。
おごられることが仕事だなどと言うひともいるけど、そういうのはまれで、普通はお金がなければ自由にもなれない。若いうちにたっぷり稼いでアーリーリタイアしたようなひとでも、この先死ぬまでの何十年かの心配から完全には解放されていないようだ。

先週も書いたけど、経済から自由になることは現代社会では難しい。与えられている環境、または限られた資源のなかで自身の目指す自由を少しでも得るしかない。
わたしたちはある種の自由と引き換えに別の種類の自由を手に入れるために文句を言いながらも働いているんだと思う。

そんなことをカルピス飲みながら考えたのだった。
観た映画はこちら。
不条理な社会のなかにいるのに、あれがないからこれができないなどと文句も言わず、それぞれがいちばん大事なものを守りつつ旅して生きる強さがアメリカの壮大な自然とともに美しすぎて、いまだにこっちの世界に戻ってこれない。


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