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「わかった」って言い切ることの、なんと難しいことか

勉強の根源は暗記作業。しかし人間の脳には限界があります。触れていない情報は次第に忘却し、いつしかぼんやりとしか思い出せなくなります。

そんな人間である私たちが「わかった」と言い切ってしまうことって、すごくすごく難しいよね、と院試勉強を通して感じるようになりました。というより忘れていたけれど思い出したというか、改めて感じたというか。


例えば今の私たちがどれだけ熱心に院試勉強をしても、100点を取れる可能性なんてほんの僅かです。でも院試勉強をした教科について「わかる」、もっというと「理解している」と言い切るには、少なくとも試験で満点を取るのが絶対条件です。その上試験で満点が取れたところでその他の部分を理解していない可能性はまだ残されています。「あーそーゆーことね、完全に理解した」と言い切って、実際に完全に理解していることってほとんどないわけです。

それでも人には「わかる」というスタンスをとらなければならない場面がありますね。大人気テレビ番組「ネプリーグ」の漢字書き取り問題で、それまで一度もゲームオーバーになったことのなかった東進ハイスクールの名講師、林修氏が「貼る」を書けなかったことで大バッシングを受け、その後ネタとして擦られまくったのはあまりにも有名な話です。

大学での研究においても同じようなことがあります。「自分の研究は自分が一番よく理解していると思え」という教えを受け、どんな質問にも自分なりの見解あるいは正しい知識によって返答しなければならない時間が今後何度も訪れることを今から想像し、そんなことできるのか自分と恐れ慄いています。でも「わかる」と言い切るってそういうことです。それができないと研究者として失格なわけです。

そしてそれが大きなコミュニティの中で行われるほど、責任感はどんどん大きくなっていく。公式の学会で受けた質問の答えをド忘れして「えーっと忘れてしまったんですが…」とか言った日にはそれこそ総スカンを受け評価ガタ落ち、テンションダダ下がりです。人間のやむを得ない部分である「忘れる」をも許容しない点はある種病的であるようにも感じてしまいます。


だから簡単に「わかった!」と言い切ってしまうのは、実はすごく恐ろしいことなんじゃないかと思うわけです。達成感を得たいという浅はかな目的からこの言葉を使うことは、すごく自分勝手なように感じてしまいます。

「ねえねえこれってわかる?」と聞かれた時、返答に悩んでしまうことがあります。自分の「わかる」が世間的に見てどれくらいの「わかる」なのか、完全な理解に至っているのか、そしてそれが他人にも伝えられるほどの領域に達しているのかと、余計なことを考えてしまうからです。考えすぎでしょうか?

みなさんも、安易な「わかった」にはご注意を。


さてこの文章、完全に理解できましたか?
大丈夫です、たぶん自分でも完全には理解できてないので。そんなもんです。

それではこのへんで。



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