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擬態とその代償

いやnote書いている場合ではないんですが。試験の何日前よ、今?
だが言葉は発散しないと、息ができなくなってしまう。


「敵を騙すにはまず味方から」という言葉がある。騙された味方の気持ちはともかく、まあ有効な戦法なんじゃないかと思う。だって、私もこの戦法を得意とするタイプの人間で、めちゃくちゃ効果があったから。「効果を実感しました!」ってやつよ。

私が騙したのは、自分自身だ。

「痛くない。辛くない。寂しくない。怖くない。私は耐えられる。」

自分自身に、そう暗示をかけていたのは、いつから?


それはきっと6歳の頃。先生に怒られて、教室を追い出されて、寂しくて辛くて惨めで。その感情が迫り上がってくる前に、自分の感情が、スッと静かになっていくのを感じた。好きな小説で「冬の湖面のように」って表現があるけど、まさにその表現がピッタリだ。

感情がしぼんでいく。どこか遠くの1点をぼーーっと見つめているような感覚。それを使って、自分を騙した。「自分は今、辛くない、大丈夫だ」と。

小学校の教室で先生がヒステリックに怒鳴り散らしている時も。低い声で教室の子どもたちを脅している時も。

家で肩をどつかれた時も。頬を叩かれた時も。漢字が書けない私を見て母が「死ね」と言い放った時も。日常の会話のノリで父が「お前を産むつもりはなかった」と言った時も。

高校の先生に(私が受けた暴力について)「あなたも悪かったね」と言われた時も。

私は、辛くなかった。なんにも辛くなかった。それが日常だと暗示をかけた。自分を騙すのって結構簡単だ。



「…ねぇ、先生、これって15年ぶりくらいに自分の感情に気付いたってこと?」

「うん、そうだね。成長したね。空木さん」

カウンセリングルームにて。私が、私を騙していることに気づいたのは、18歳になってからだ。すなわち、18歳になって初めて、幼い頃の辛かったことを「辛かった」と認識できるようになった。

遅い。遅すぎる。

だって、もう18歳。成人年齢に達している。私はもう子どもじゃなくて、誰かに守ってもらえる保証はもう無くて、自分で自分を守らなければならない。

権利の上に眠るものは助けてもらえないのか?眠っていたつもりはないんだが。



未だに言われる。「いつも元気そう」「悩んでいるようには見えない(見えなかった)」と。

そうだね、いや別に間違いではないんだよ?当の本人でさえ「辛い」「悩みがある」とは感じないようにできている体だからね。

…そんなことは口には出せないけど。

6歳の頃に始まった「普通で元気な人間」への「擬態」は、未だに続いている。今いる場所が、辛い、という感情を出したら危険な場所だと心 or 体が判断した場合、感情のほぼ全てがシャットダウンされて、代わりに出てくるのは笑顔。これがなかなかうまくできていて、号泣していても、切り替えようと思えば1秒で笑顔になれます。えっへん。


手前味噌ながら、私はとっても良い子だった。だって、そうしなければ、危険だったから。これが未だにやめられない。難しい。目の前にいる人間が安全かどうかなんて、見た目だけでは何も分かりようがない。

実家暮らし。起きたら家庭を平和に過ごす私に擬態して、電車に揺られて、学校につけば、友人と楽しく話や議論をする私に擬態する。帰ったら、また家庭用の私に擬態して…。


本当の私は誰かって?
そんなの忘れてしまったし興味がない。

きっと「愛されたい」「寂しい」と泣いているインナーチャイルドの言っているこの言葉が私の本心なんじゃない?

どうでもいい。どうでもいい。

今日さえ安全に過ごせれば。


そういうもんだ。



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