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『お伽草紙』

*2021年9月朗読教室テキスト② アドバンスコース
*著者 太宰治

桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
 ムカシ ムカシノオ話ヨ
 などと、間の抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が醞醸せられてゐるのである。

ーお伽草紙「前書き」よりー

長らく朗読会で読んでみたいと折々で候補にあげつつ、その時々のテーマから僅かに外れたために幾度も機会を逃してきた作品です。

御伽話、昔話は朗読と切ってもきれない縁があり、どちらも口伝で後世に伝えられてきた背景があります。太宰治の『お伽草紙』は、防空壕の中で子供をなだめる唯一の手段として絵本を読んで聞かせながら、しだいに既存の昔話を自らの言葉でアレンジしながら語り始めました。始まりが文字でなく、太宰の口から発せられた小説です。

このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである。若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。

こんな調子です。まるで近所の噂話をするかのように、けれども物語の本筋からは外れずに、あちこち寄り道をしながら進んでいきます。
太宰の『お伽草紙』を読むと、口伝で残されたありとあらゆる物語が、話者の解釈や時にはいたずら心などが加えられ、その場その場で膨らんでいったのではないかと想像します。文字の世界にはない自由な変化を伴いながら、物語の本質だけが残っていきます。

瘤取り、浦島さん、カチカチ山、舌切り雀。どれも日本人には馴染みの深い昔話ですが、『お伽草紙』の中にもっとも有名な桃太郎は欠けています。

それに私は、自身が非力のせゐか、弱者の心理にはいささか通じてゐるつもりだが、どうも、強者の心理は、あまりつまびらかに知つてゐない。殊にも、誰にも絶対に負けぬ完璧の強者なんてのには、いま迄いちども逢つた事が無いし、また噂にさへ聞いた事が無い。私は多少でも自分で実際に経験した事で無ければ、一行も一字も書けない甚だ空想が貧弱の物語作家である。

太宰曰く”完璧の絶対の強者”である桃太郎が欠けた理由も含めて、太宰の独り言のような、人生観のような精神が垣間見られる『お伽草紙』を、改めて音の物語に戻しながら、前書きとともに朗読してみたいと思います。

*底本 『お伽草紙』新潮文庫
 昭和四十七年三月二十一日 発行 / 平成十年五月三十日 五十四刷
*文中の太字は本文より抜粋

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