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栞の居場所

古書を買ったり、友人から本をもらったりすると栞が挟んである。または本に付いているリボンが挟まれたページがある。

手に取ると、そのページが気になる。

誰かがそのページを読ませようと、敢えてそこへ挟んだのではないかと想像したりしてしまう。古書店の店主か、元の持ち主か、本をくれた友人かその恋人が。

多分、そんなことはほとんどなくて偶然そこへ挟まったものなのだろう。それでも何となく気になってそのページを開き、少し読んでみたりする。もしかしたら、一生の間にどうしても出会って欲しいと、前の所有者が願った一文がそこに隠れているかも知れないのだ。



急に面白くなる本


最初の十ページを我慢して読むと急に面白くなるという厄介な書物も世の中にはある。出だしに我慢を強いる本。ところがこちらの気分が乗らず十ページを読み切れない。そしてそのまま放置されてしまう、そんな本もある。

しかし、どうしてもここを読んで欲しいと願った読者がいて、次の人へバトンを渡すつもりで栞を挟む。そう思うと栞の場所が気になって仕方がない。稀にあるのではないかと訝りながら。


『エストニア紀行』


人間の伝統的な世界観はどこでも同じである。自分を中心として、家族、一族、仲間、隣人、他人がいる世界が同心円状に広がっている。いちばん外側にはだれも知らない世界が横たわっている──

『エストニア紀行』森の苔・庭の木漏れ日・海の葦   梨木香歩 (解説 奥西峻介より一部引用)新潮文庫




今日受け渡された本にはそう始まるページにリボンが挟まれていた。よく見れば、それはすでに本編が終わった解説の部分だった。

「いちばん外側にはだれも知らない世界が─」

そこを目指し、あるいは奇遇にも辿りついてしまった人々の残した紀行文は面白い。人が移動すれば旅になる。

そういえばたまたま今日来てくださった方から聞いた話で、昔の東京の噺家さんは地方興行の際に南下して「横浜を過ぎたら旅だから、旅だから、旅だから飲んでいいよね」といって、お酒を飲み始めてオッケーだったらしい。なんかほのぼのしていていい話だ。

行き帰りといえば、帰り道を忘れないようにお婆さんが枝を折った話は著名ですが、山へ入って迷子にならないように、「枝を折って帰路に目印しておく」そのことを枝折(しおり)というんだそうです。そこから転じて書物へ挟むものが栞/枝折と呼ばれるようになったと。

(出典wikipedia) https://ja.wikipedia.org/wiki/栞


誰かが目印に折った枝の足元に、一生に一度出会えるかどうかという幻のキノコが生えている。しかもそれは、この先の人生の方角を変えてしまう可能性を含んだ胞子でもある。ただ大抵の場合、目印の下にキノコはなく、自分で探すことになる。人生で出会う最上の菌類はやはり自ら採取した言葉なのだ。


いかにして山へ入り、そして出てくるのか。


『エストニア紀行』の著者は旅中に持ち歩く本の総量を体重の四パーセント以下とすることを最適としている。それは渡り鳥と鳥につける計測機器の比重と同じで、彼らの苦労を体験できるからという。こんな考えをする人が詰まらない本を書くわけがないではないか。

旅のガイドを誰に、または何に頼るのか。本が次の旅の道しるべになることも稀ではない。さぁ、書店へ行こう。


九月。それは毒を掴まないように注意しながら秋を満喫する季節の始まり。
次の山は見つかりましたか?それではまた、休憩室でお会いしましょう。

あっ、ちなみに上町休憩室にある本の枝折に意味は全然ありません。皆さまお好きな場所へ挟んで頂きますように。

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