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分からない続ける

分かる、というのは、一種の思いこみと言う意見があった。どこかで学んだ気がするが、その出所が曖昧なことにはご勘弁。

分かんないよと言ったって、そりゃそれが人の世の常ではないのですか? 

何もかもが、時間順序的に繰り広げられる言葉というものの中に当てはまるような、素直な子どもの同じ顔をしてこっちを向いてくれると思ったら、それはそれは大間違いッす。

言葉で表現できないために、言葉以外のもので表現する。

それだけ、ということもありえる。言葉は確かに情報でありますけれども、情報が総て言葉であるというのには納得がゆきません。

分かんない。だからこそ、それをそのままにしておくことも必要だとは思うのです。

神様を理解できるか、神社に(神を信じていないのに)稲穂の様に頭を垂れる真の価値や意義とは何かを、言語で記述し説明できるかと言われれば、ワタシの力の及ぶところではありません。

分かるというのは、一種の「分からなさ」を排除している、或いは偽性にしていることにも思えます。分かる必要がないとまで言いませんけれども、分かることが総てではないことも確か。

不安定な時代。不確定要素だらけの時代。でもその裏に、「分かるはず」という思い込みがあったとすれば、ワタシはそれを傲慢と名づけようと思います。分からないなら、分からないなりにやっていくしかない。というか、そうやって、祖先は何百万年も生きてきたのですから、きっとワタシにも出来るんじゃなかろうかと、これもまた一種の傲慢でしょうか。

しかしとても不思議です。この個体、つまりワタシが生まれるまでに、一体何世代のそせんがその命を紡いできたのでしょう。

悠久の時とはきっとこういうことを言うのだと感じます。

あまりにも長い長い、或いはワタシが長いと勝手に判断しているような短い時間が、「分からない」に満ちた、不思議なものでしかない。

結局、「分からない」の間隙で、宙づりになっている。また、「宙づり」です。

分からないから、分かろうとする。

そんな耳にタコができるくらいに聞いたことを言いたいのではなく、分かろうとするのは、ほどほどだからこそイイんじゃないかということです。分かろうとするのは構いません。

でも「分かる」は違う。

それが先ほども申しましたように傲慢ですし、不可能です。

ワタシはきっと、「分かろうとする」というまさにこの過程に、過程的な動作の中に現れる不断の努力や葛藤に、「分かる」という目的やエンドよりも、よっぽど意味を見いだすんなんじゃないかと思っているだけです。

答え? 
正解? 
目的? 
エンドゲーム? 
大団円? 

なにそれおいしいの? ワタシは、それらはただの「過程」の二つ名だと思っています。その過程の(個人的な)特殊な意味付け、それが答えだったり、正解だったりするわけで、それをそれ自身が直接的に措定できるような証明なんて、どこにもないわけです。

だから、証明の証明の証明の証明の・・・証明のような無限の後退が(論理的には)可能になる。イデアも、純粋形相も、結局ワタシにはわかんない(そんなに哲学勉強してへんけど)。

ワタシはきっと、分かった気がする錯覚を覚えて、「分からない」を続けるだけなんでしょう。「分からない」なりに色いろするって、そういうことだと思います。

これは今世代特有の「悟り」ってやつでしょうか。それとも、ただの妄言ですかね。



今日も大学生は惟っている



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