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文章の匂いの薫ずること

うんーん。うん!と、タイトルだけ書いておく。タイトルだけ書いて、今かなと感じた瞬間に、キーボードに手を添えて、キーを打ち始める。相変わらず、文章を書く前の下書きや文章構成のプロトタイプを作るのは大苦手。

物事を見ている。見ているというよりかは、観ているに近いかもしれない。この「観ている」という行動は、観想やテオーリア(theoryの語源)という概念にも通ずるものがあるかなと思う。文章を書くというのは、同時に考える事でもあると、以前からよく書いている。ということは、文章を書く以前は、大して考えていないということだ。文章を書く以前、何か身の回りのあらゆるものを観ている時は、ただ感じているに近いのではないかと。

以前にも引用したのだと思うが、ここでも引用する!

ものを考えるには、I think という考え方と It seems to me という考え方の二つがあることになる。〔中略〕ぼんやり、断片的に、はにかみながら顔をのぞかせる。それがとらえられ、ある程度はっきりした輪郭ができたところで、 It seems to me になる。それに対して、I think の形をとる思考はすでに相当はっきりした形をとっており、結末への見通しを立っている。(外山滋比古、1986、221)

恐らく、文章を書く前の(つまり本格的に考える前の)、ボヤーッとしているあの段階は、外山滋比古さんの言葉でいう「It seems to me」という段階なのだろうなと。別にこの人の云うような思考段階を身に着けたいとは思わなかったけど、何故かこの人の指摘するような考え方になってしまったのだろう。

「It seems to me」というのは、実に納得がいく表現だ。明確に主体としてのワタシが考えているのではなく、前記号的なものというか、ノイズというか、言葉になるまえのものが、観ているものからホワほわと湧いてくる。脳の奥の方で、後頭の真ん中あたりで、観ているものと、その構造のようなものが、見えるか見えないかのところで漂っている。

それは、「匂い」みたいな。外山滋比古さんが「It seems to me」と表現するものを、ワタシは「思考や文章の匂い("It smells to me")」と表現したい。明確には見えない。目の前に現れるのは、もう少し後。そういう、あぁ・・・と感じるもの、なんかあるなと直感で見える?もの、薫ずることが出来るものを、思考の前形態のものとして、捉えることが出来るようになっていたら、ちょっとカッコいいよねー。

人間という生物には、鼻がある。目がある。耳がある。舌がある。肌がある。匂いを、風景を、音楽を、苦味を、肌理を感じることが出来るように。

でも、それだけではない気がするのだ。もう一つの、鼻や目や耳のようなもの。この物理的な、人間の始まりの身体とは別の、薄い、周りにこうフワフワと漂っている、もう一つの身体(或いは皮膚)。そのもう一つの身体にあるような、「鼻」みたいな器官が、ちょっとずつではあるけど、磨かれている気がしてきた。(全くの気のせいかもしれないけど)

この軟骨で大部分が出来ている「鼻」では、「思考や文章の匂い("It smells to me")」を嗅ぐことは出来ない。けど、もう一つの身体の「鼻(のようなもの)」であれば、その匂いを薫ずることが出来るかもしれない。見逃してしまうノイズのようなものを捉える感性の伸ばし方じゃないけど、見逃してしまいそうで、決してはっきり見えない合図を嗅ぐ(或いは観る)"本能を育てる"ことが出来たらいいなと思う。





今日も大学生は惟っている


引用文献

外山滋比古.1986.思考の整理学.ちくま文庫


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