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■【より道‐104】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「応仁の乱(通説)」

今までの人生で、「応仁の乱」ほど、わけがわからなく、興味のわかない戦はありませんでした。まあ、そもそもファミリーヒストリーを調べるまで歴史に興味がなかったのですがーー。

中世の時代は、たくさんの武家名がでてくるし、下の名前は、みんな似たような感じで覚えにくい。戦にどんな大義があったのかも想像しづらくて、生きていくうえで必要のない知識だと思っていたました。

しかし、ファミリーヒストリーを調べていく中で、長谷部氏をネットで検索すると、「応仁の乱で長谷部宗連が、山名宗全の西軍に属した」と記されています。

長谷部宗連さんは、じぶんが持っている「家系図」には登場しない人物ですが、ご先祖様は「明徳の乱」で、山名氏に属している方と、幕府軍の「奉公衆」に属している方がいて、同族で戦っていたようですし、じぶんの父の実家、岡山県新見市にいみ高瀬たかせは、立地的にも山名氏の領国ですので、一族のヒストリーに大きく関わった戦だったんだなと思っています。

今回、畠山氏、六角氏、京極氏のお家騒動を学ぶことで「応仁の乱」の本質を学べた気がしますが、まずは、ここで一度、「応仁の乱」というものが、どういうものなのか、一般的に伝わっている内容を整理してみようと思います。


■ 八代将軍・足利義政

1449年(文明六年)、管領・畠山持国もちくにに支えられて、足利義政(よしまさ)が14歳で八代将軍に就任しました。

1441年(嘉吉元年)「嘉吉の乱」で将軍不在となってから8年間は、管領の畠山持国もちくにと細川勝元かつもとを中心に有力武家の合議制により、政事を治めてきました。

そのため足利義政(よしまさ)は、当然のように名ばかり将軍となってしまいます。さらには、正室・日野富子とみことの間に生まれた男児を幼くしてなくしてしまうという悲運も経験したそうです。

そのころの日本は、飢饉が蔓延して全国各地で土一揆がおきています。しかし、足利義政(よしまさ)は、政事をそっちのけにして、茶道・華道・猿楽など文化的なことに興味を持ち、花の御所の改築や、造園の建築に勤しみました。

そのおかげで、飾り気のなく質素な風景にある清らかな美しさ「わび」や、古びてあじわいのある「さび」という、日本人の心に打つ、日本人らしい文化を築く素晴らしい才能を持った将軍となりました。


■正室・日野富子

この頃の将軍家正室は、代々、公家の日野家が担ってきました。日野氏というと、鎌倉時代末期に足利尊氏たかうじ後醍醐ごだいご天皇を結びつけて、「元弘げんこうの乱」のキッカケをつくった、日野俊基ひのとしもとが有名です。

しかし、本来、日野家は、北朝の持明院統じみょういんとうに仕える一族でしたので、足利尊氏たかうじが九州に下り、光厳上皇こうごんじょうこう院宣いんぜんを得ることができたのは、日野家の仲介があったからだそうです。

そんな日野家は、三代将軍・足利義満(よしみつ)の代から将軍の御台所を務めてきますが、足利義政(よしまさ)の時代に妻だったのが、日本三大悪女の一人と呼ばれている日野富子とみこです。

日野富子とみこは、政事に興味のない、夫に代わり、少しずつ政治にかかわっていき、さらには関所の通行料を徴収したり、大名への高利貸しなどをして、富を築いていったそうです。

全然関係ないとは、思いますが、平安時代末期、ご先祖様の長谷部信連が流された伯耆日野郡は、公家である日野氏の荘園だったのではないかと、勝手に妄想しています。他にも日野という地名は、全国に結構ありますからね。


■足利家の家督争い

1464年(寛正五年)足利義政(よしまさ)28歳は、相変わらず政事に興味がなかったそうで、まだまだ若いのに、とっとと隠居したかったそうです。しかし、正室・日野富子とみこには子宝に恵まれなかったことから、出家していた弟・足利義視(よしみ)に還俗げんぞくさせて、後継者にすることにしました。

しかし、翌年の1465年(寛正六年)に足利義政(よしまさ)と日野富子とみこの間に息子・足利義尚(よしひさ)が生まれたことで事態は一変します。日野富子とみこは、息子である足利義尚(よしひさ)に跡継ぎを譲ることを望み、足利義政(よしまさ)も「息子を九代将軍とする」と世継ぎの変更を申し出ます。

すると、仏の道を捨ててまで、跡継ぎの約束をしていた足利義視(よしみ)はこれに反対するわけです。「約束が違う」と。すると、足利義政(よしまさ)は、判断を下せなくなってしまったといいます。

そして、将軍家は「義視よしみ派」と「義尚よしひさ派」に分かれ、足利家のお家騒動、「応仁の乱」へと発展するのです。


■応仁の乱

そのころの、有力武家でチカラをもっていたのが、管領・細川勝元かつもとと、四職の山名宗全そうぜんです。このふたりは、義父と義息子の関係ではありましたが、政争で対立していました。

すると、日野富子とみこが山名宗全そうぜんを味方につけて、足利義視(よしみ)は、日野富子とみこに対抗するために細川勝元かつもとと手を組み兵を集めました。

両軍は、京の東西に本陣を置いたため、細川軍は「東軍」・山名軍は「西軍」と呼ばれました。両軍には、お家騒動で揉めている有力武家たちが、それぞれの思惑で加わり、ここに「将軍後継争い」「政争争い」「家督争い」がいり混じる「応仁の乱」がはじまったのです。

「応仁の乱」では、兵力が足りなかったため、農村からチカラのあるものが集められて、身軽な装備をまとった「足軽」が生まれました。そして、神社仏閣にもどんどん兵が送り込まれ、貴重な仏像や書物が焼かれて灰になったともいわれています。

更には、山名宗全そうぜんが足利義視(よしみ)に寝返り、細川勝元かつもとが足利義尚(よしひさ)に寝返るという、東西の大将が主君を変えるという、わけのわからないことが起こり、現場は大混乱。大義名分のないこの戦に、有力大名たちも愛想をつかして、各々の国に帰っていったと言われています。

そして、1472年に(文明四年)になると、細川勝元かつもとと山名宗全そうぜんの間で和議の話し合いがもたれ始め、山名宗全そうぜんの自殺未遂をするパフォーマンスなど、すったもんだありましたが、1473年(文明五年)に、ふたりとも相次ぎ亡くなってしまいました。

東軍・西軍の両大将がなくなると、山名宗全そうぜん・細川勝元かつもとの息子たちが和睦を結び、争いは徐々に終息し1477年(文明九年)に落としどころが成立して、11年もの長きにわたる戦いが幕を閉じました。


これが、一般的に伝わる「応仁の乱」です。やはり、これだけでは、理解するのが難しいですね。


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