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■【より道‐102】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「京極騒乱:前編」

「応仁の乱」を語るには、京極家のお家騒動、「京極騒乱」についても書いてみようと思います。

なにせ、長谷部氏のご先祖様は、京極氏と婚姻関係を結んでいますし、我が家に残る「尼子の落人」と言い伝えを考えると、佐々木京極氏や佐々木六角氏のファミリーヒストリーと何かしらつながっていると思っています。

佐々木氏は、平安末期に源頼朝を支援した一族ですが、代々、近江国(滋賀県)や出雲国(島根県)などの守護を務めていました。有名な人物でいうと、南北朝時代に、佐々木道誉どうよという人物が、足利尊氏たかうじと共に大活躍をして日本を支える人物となりました。

その、佐々木道誉どうよは、京極きょうごく道誉(どうよ)ともいいます。その名の由来は、曽祖父の佐々木信綱のぶつなが、本領の近江国を四人の息子に分割したときに、彼らの子孫がれぞれ大原氏、高島氏、六角氏、京極氏と名乗るようになったというのです。

京極という名前は、京都室町の京極高辻という場所にある館の地名からとっており、その館には、藤原北家御子左家ふじわらほくけみこひだりけ(二条家)の流れを汲む公家が住んでいて、冷泉れいぜい家と名乗っていたそうです。

つまり、摂関せつかん家につながる名門貴族の館が近江国の田舎大名に譲渡されたということになります。御子左家みこひだりけは「歌人の家」ですので、田舎大名でも館を譲る受けるためにはそれなりに、和歌や連歌の素養があることを証明しなければいけません。

京極導誉(どうよ)の祖父・京極氏信(うじのぶ)や、父・京極宗綱(むねつな)にも和歌の素養がありました。京極宗綱(むねつな)の作品は『後拾遺和歌集ごしゅういわかしゅう』『新千載和歌集しんせんざいわかしゅう』『新拾遺和歌集しんしゅういわかしゅう』にそれぞれ一首収載されているそうです。

そんな、京極氏も1468年(応仁二年)ごろから、他有力大名と同じようにお家騒動が起こってしまいます。それは、「京極騒乱」といわれるものなのですが、それが「応仁の乱」そのものといっても過言ではありませんでした。


■ 管領・細川勝元と侍所・京極持清

1441年(嘉吉元年)に「結城合戦」の戦勝祝いを赤松氏の館で行っていると、突然、刺客がふすまを破り、六代将軍・足利義教よしのりを殺害しました。

そこに集まる有力武士はあまりの突然のことで、逃げ惑いましたが、抵抗をしたのは、数名の守護大名と近衆。そのなかには、京極家当主、京極高数(たかかず)もいましたが、重症の傷を負い、後日亡くなったと言われています。

その後、赤松氏の討伐を行いますが、その隙をついて「嘉吉の土一揆」が起こるなど、幕府内はしばらく混乱極まりなかったですが、「嘉吉の土一揆」が治まるころ、京極高数(たかかず)の甥、京極持清(もちきよ)が、出雲国・隠岐国・飛騨国の守護を引き継ぎました。

1444年(嘉吉四年)になると、今度は、京極氏の同族で佐々木氏一門の宗家である六角氏でお家騒動が起きてしまい、幕府に助けを求めてきました。

この頃の室町幕府は、は足利義教よしのりに続き、七代将軍・足利義勝よしかつも若くして亡くなっていたので将軍不在の時期です。そうなると、「管領」や「侍所」という職に就く者が、世を治めることになるのですが、「管領」は、細川勝元かつもと、「侍所」は、京極持清(もちきよ)が担っています。

しかも、京極持清(もちきよ)の妹の旦那が、細川勝元かつもとということもありまして、京極持清(もちきよ)は、細川勝元かつもとと相談をして、六角氏のお家騒動に介入します。

幕府は、お家騒動の当事者には家督を継がせず、仏の道に進んでいた三男の六角頼久よりひさを還俗させて家督を継がせましたが、その後、六角頼久よりひさは、京極持清(もちきよ)の内政干渉に苦しみ、自害したと言われています。

1467年(応仁元年)に「応仁の乱」がはじまると、京極持清(もちきよ)は、東軍の細川勝元かつもとを支援して、六角頼久よりひさの息子、六角高頼《たかより》と近江国をめぐって争います。

そして、1469年(文明元年)。管領、細川勝元は、近江国守護の六角政堯まさたかを解任して京極持清(もちきよ)を守護にしました。


■ 家督争い

同族とはいえ、他家のお家騒動に介入したうえに、近江国の守護にまで就いた京極持清(もちきよ)ですが、自らの子孫たちにお家騒動の禍根を残してしまいました。

その、因果応報は、息子で長男の京極勝清(かつきよ)が、「応仁の乱」の最中に病死してしまったことからはじまります。

京極勝清(かつきよ)には、正室とのあいだに、京極孫童子丸(まごどうじまる)という息子と、庶子の京極乙童子丸(おつどうじまる)のちの京極高清(たかきよ)という二人の息子がいました。

ふたりの息子は、幼くして、父を失ってしまうことになりましたが、間もなくして、祖父である京極持清(もちきよ)も亡くなってしまいます。

すると残された者たちで次期当主の意見が割れてしまったのです。

京極孫童子丸(まごどうじまる)の擁立には、京極持清(もちきよ)の三男・京極政経(まさつね)が支援して、

京極乙童子丸(おつどうじまる)のちの京極高清(たかきよ)の擁立に、次男の京極政光(まさみつ)がつきました。

次男の京極政光(まさみつ)が庶子、京極乙童子丸(おつどうじまる)擁立した理由は、父、京極持清(もちきよ)が、生前、京極乙童子丸(おつどうじまる)のことを可愛がっていたという、かなり強引な理由です。

とはいえ、家中の意見が真っ二つに分かれてしまいましたが、管領・細川勝元かつもとは、京極孫童子丸(まごどうじまる)に家督を継がせることにしました。すると、家督継承に不満を持つ京極政光(まさみつ)と京極乙童子丸(おつどうじまる)こと、京極高清(たかきよ)は、山名宗全率いる、西軍に寝返ってしまうのでした。


「応仁の乱」には、いろんな思惑や要因が含まれていますが、「京極騒乱」もその一つです。しかし、色んな名前がでてきて、しかも、似たような名前が羅列されるので、より一層わけがわからないですね。


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