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■【より道‐74】戦乱の世に至るまでの日本史_「足利一門」の整理

足利氏をはじめ、三管領のファミリーヒストリーをざっと、辿ってみると、「足利一門」は、同じ血のつながりのある一族だということをここにきて、ようやく理解することができました。

そこで、足利一門をもう一度、整理しようと思い、まずは、八幡太郎こと、源義家(よしいえ)から辿ってみることにしました。なぜ、八幡太郎かというと、なんとなくです。なんとなくですが、あえて理由をつけるとこういうことです。

岡山県新見市神郷町高瀬のご隠居の実家の近くに八幡神社があり、長谷部氏と隣人の松田氏は、八幡神社が氏子だったそうです。その地域のほとんどの人は、少し離れた場所にある氷室神社の氏子です。長谷部氏と松田氏だけが八幡神社の氏子なのです。なので、八幡太郎さんから調べることにしました。


■源氏の血筋
八幡太郎こと源義家(よしいえ)には多くの子が生まれましたが、その後、血筋を保てたのは、源義親(よしちか)と源義忠(よしただ)、そして、源義国(よしくに)の三人の息子です。

家督は、源義親(よしちか)が継承しますが、その子孫が、源頼朝(よりとも)につながります。

ご存じのとおり、源頼朝(よりとも)は鎌倉幕府を開き、世を治めるために叔父の源(木曽)義仲(よしなか)や、弟の源義経(よしつね)など、同系の血族を根絶やしにして、トップに君臨しました。

しかし、世代を超える因果応報でしょうか、息子の源頼家(よりいえ)や源実朝(さねとも)まで、殺害され、宗家の血筋は滅亡してしまいました。

そこで、源氏の棟梁として名があがるのが、源義国(よしくに)の血筋です。源義国(よしくに)の子孫が、後の室町幕府をかけぬけた「足利一門」とよばれるようになっていきます。
 

源義国(よしくに)には、源義重(よししげ)と、源義康(よしやす)という息子が生まれますが、源義重(よししげ)は新田氏を名乗り、源義康(よしやす)は、足利氏を名乗るようになります。

新田氏の子孫で有名なのは、新田義貞よしさだですが、他にも、里見氏や山名氏、得川(徳川)氏も新田氏の系統だといわれています。新田氏や山名氏が、本来であれば、じぶんたちが源氏の棟梁だといいたくなる理由は、ここにあるのかもしれませんね。


足利氏は、さらに、足利義清(よしきよ)と足利義兼(よしかね)という兄弟にわかれまして、足利義清(よしきよ)の子や孫が細川氏や二木氏を名乗るようになります。

そして、異母兄弟で弟の足利義兼(よしかね)の子が、足利氏や桃井氏、畠山氏を名乗るようになり、足利義兼(よしかね)の息子で足利宗家を継いだのが足利義氏(よしうじ)です。さらに、その孫の世代の兄弟たちが吉良氏、今川氏、斯波氏、渋川氏、一色氏となるようです。

 
では、なぜ、兄の足利義清(よしきよ)が庶家で、弟の足利義兼(よしかね)が宗家となったかというと、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、足利義清(よしきよ)は、源(木曽)義仲(よしなか)を支援し、足利義兼(よしかね)が源頼朝(よりとも)についたからだそうです。
 

源氏は、みんな「義」の偏諱へんきを継いでいるから、わけがわかりません。しかし、こうやって辿ってみると平安時代からずっと、家督を争うために、兄弟ケンカをし続けていたよう思えます。その結果、戦国期に突入するというのが、日本史の本質かもしれませんね。

ちなみに、八幡太郎こと源義家(よしいえ)の弟に源義光(よしみつ)がいるのですが、この子孫が、武田氏や南部氏につながるそうですよ。

なんだか、整理しても頭がごちゃごちゃしてしまいますが、戦国期に武田信玄と今川義元が同盟を組んでいたのは、同じ源氏の末裔だったからなんですね。


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