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■【より道‐56】歴史が刻まれる聖地_それぞれの「厳島神社」

父とのメールのやり取りが始まってから半年の月日が経ちました。

毎朝、父から届くメールを読んで、通勤中に返事を考えながら返信する。作家の父から物書きのノウハウとして教えてもらったことは、

「とにかく書き続けること」

100本ノックのごとく続くテーマは「ファミリーヒストリー」。父が生涯かけて研究してきた、ご先祖様の活動を知ることで、人生を乗り越えるヒントを知ろうというものでした。

我が家のファミリーヒストリーに対する調査は、いつのまにか2世代続く研究題材となり「自分がなぜ生まれ、何のために生まれてきたのか」という、人生の意味を考える時間はいつのまにか膨大になりました。

はじめに長谷部信連という、平安時代末期に活躍した氏祖の存在を知り、戦国期を経て我々のご先祖さまが「尼子の落人」だと言われる由縁を調べていました。この頃は、小説に登場するような物語を読んでいるような感覚でしたが、

明治から昭和初期までの近代史に活躍したご先祖様のことを知り、祖父・與一さんが、蒙古連合自治政府で働いていたことや、祖母・貴美子さんが生前書いていた手紙が届いたりと不思議なご縁に導かれていくことで、なんだか、スピリチュアルなことを体感している気分に思えました。


ここまできたら、ご隠居の故郷で岡山県神郷町高瀬に帰り、墓参りをしたいなと、なんとなく思っていましたが、その日は意外とすぐに訪れました。


◼️ルーツを辿る旅
2021年8月。広島駅に降り立つと福岡から車で関門海峡を渡り、わざわざ山根さんが来てくれました。山根さんとは、普段からご隠居とのメールのやり取りを共有しながら、歴史探偵をしている仲です。

今回の旅の目的は、鳥取県日南町にある「厳島神社」や、長谷部信連が頼ったといわれている「金持神社」に行くことですが、まずはじめに1555年(弘治元年)に長谷部元信が参戦した「厳島の戦」の場所となった宮島にある「厳島神社」に行くことにしました。

過去に一度だけ宮島に行ったことがありましたが、その時は、自分のご先祖さまが、この地で戦ったことなど全く知りませんでした。

宮島に渡るためのフェリーに乗ると「今日はたくさん勉強してきました。厳島の戦にはいろんな説があるそうですよ」と山根さんが話し出しました。

「そもそも、宮島にはすえ軍と毛利軍どちらが布陣したとおもいますか」

「毛利軍ですかね」

「そうです。そしてこの海での戦いに毛利元就は村上水軍を味方にしたそうです」

もともと北九州から山口、広島、島根にまで勢力を広げた大内氏に陶氏と毛利氏は従属していました。しかし、陶晴賢すえはるたかが主君の大内義隆おおうちよしたかを殺害し陶氏が実権を握ると、毛利元就はじめ安芸や備後の国人たちは、納得がいかないと立ち上がったそうです。

そこで、毛利元就は、狭い宮島に陶軍をおびき出し、背後を襲えば勝てるはずと、のちの戦国期の三大奇襲と呼ばれる「厳島の戦」を画策したといわれています。

そのためには、陶晴賢すえはるたかを宮島におびき出さなければいけませんが、まずは、宮島にある宮尾城を占拠して改修や補強をして戦の準備をしたといわれています。


自分たちが、宮島に到着すると、神聖な動物といわれてうる、たくさんの鹿たちが出迎えてくれましたが、自分はとにかく蠣が食べたくて仕方がないです。「とりあえず、蠣を食べましょう」と店が並ぶ方へ進むと、すぐに、宮尾城があったといわれている案内板がでてきました。

ここは、蠣を食べたいという欲求を我慢し、山頂に続く狭い階段を上ることにしました。それこそ鹿の糞がそこら中に散らばっています。そして、5分もしないうちに登頂することができました。頂上では一通り街並みを見渡せますが、とてもここに軍隊は配備できないだろうというような広さです。

「いうても、200人~500人くらいじゃないですかね。」

「これは、さすがに狭いですね」

「ここに、陶軍をおびき寄せるにはどうしたのでしょうね」

「毛利元就連合軍は、自分の家臣をわざと裏切ったように見せかけたそうですよ。宮島に攻め込まれたら勝ち目がないと恐れていたと、うその情報を陶氏に流し誘導させたようです」

「まるで、日露戦争時の明石元二郎のような活躍をした人がいるのですね。その人の功績はすごいですが、いったい誰だったんでしょう。謎ですね」


見事に罠にはまった陶晴賢は、兵を率いて宮島に攻め入ります。当時の軍勢は所説ありますが、陶軍二万人。毛利軍三千人ほどだったそうです。

陶軍は、船で宮島へ渡り本陣をつくりました。正直、二万人もの兵が宮島に上陸したら、かなり狭いと思います。現在、宮島の人口は千六百人ほどですから、当時はかなりごった返したでしょうね。

それでも、宮尾城に籠城した人たちはかなり、恐ろしかったと思います。数百人の軍勢で見下ろすと、二万人もの敵が待ち受けているのですから。

しかし、陶軍が軍を配置した深夜。暴風雨のなか毛利軍の後軍が陶軍の背後から上陸をして、村上水軍に陶軍が乗ってきた船の縄をほどかせました。

そして、明朝、背後から奇襲したそうです。

狭い場所での奇襲で陶軍は混乱し、船で逃げようとも船もない。ついには、陶晴賢は宮島で自害したそうです。そして、この戦に勝利した毛利氏は、一気に西日本を制する大大名となっていくのです。


「厳島の戦」の概要を聞きながら、なぜ、ご先祖さまの長谷部元信が「厳島の戦」に参戦したのだろうと考えてみると、なんとなく、落ち目の尼子晴久を裏切り、勢いのある毛利氏に便乗したのだろうと思っていました。

しかし、翌日訪れた鳥取県日南町にある「金持神社」にヒントが書いてありました。そこには、「長谷部信連は伯耆に流され、金持氏に保護されていた。そして、源平合戦で源氏が勝利すると、能登大屋庄を知行し、宮島の検非違使けんびいしの役職を与えられた」と記載があったのです。

長谷部信連が、安芸国の検非違使だったことは、知っていましたが、それは、長谷部元信の領地、矢野庄上下町のことだと思っていましたが違いました。まさか、宮島の検非違使だったとはーー。

そして、日野の地には「厳島神社」の分社が存在しており、長谷部信連の息子が建立したといわれています。

「厳島神社」は、推古天皇が即位した593年(推古元年)に建てられ、平清盛が安芸守となった1151年(仁平元年)に大改修をして現代の設計になったともいわれています。

長谷部信連は、1186年(文治二年)に宮島の検非違使となったそうですが、その思いを、子孫たちが日野の地に残し神官として、現代に続いているということがわかりました。

長谷部家にとって「厳島神社」はとても重要な場所だったのです。


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