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■【より道‐91】戦乱の世に至るまでの日本史_義満の謀事「康暦の政変」

大河ドラマで、室町幕府を紹介しているのは「太平記」と低視聴率を記録した「花の乱」だそうです。「花の乱」は、NHKオンデマンドで視聴できないので、みたことはありませんが、第八代将軍・足利義政よしまさの妻、日野富子ひのとみこを中心描いた「応二の乱」前後の話しのようです。

他に有名なのは、テレビアニメ「一休さん」でしょうか。「一休さん」は幼いころ何度かみましたが、あの頃は、室町時代の話しだと思っていなかったので、いまになってみてみたいものです。

資料が少なく、なかなか室町時代の様子を思い浮かべることができませんが、じぶんなりに、本やネット検索しながら、第三代将軍・足利義満がどのように南北朝を統一させていったのか、そのあたりを調べてみたいと思います。


■「花の御所」

足利義満は、1368年(応安元)10歳の若さで、征夷大将軍となりました。しかし、10歳では将軍を務めるには、無理があります。そこで、父の足利義詮よしあきらは、自らが亡くなる前に「管領」であった、細川頼之に息子、足利義満を補佐するよう命じてこの世を去りました。

細川頼之は、足利義詮の命に従い、足利義満を立派な将軍にしようと、将軍の権威を確立するため奔走します。足利義満が元服するときは、大々的な式典を行い、足利義満を世に知らしめ、征夷大将軍に任命されたときには、「官位」を与えられるよう、朝廷(北朝)に取り計らいました。

そして、北小路室町に政務を行う場所として「花の御所」をつくりました。「花の御所」には、鴨川から水を引き池をつくり、年中花が咲き誇る場所で、土地の名前から室町幕府とよばれるようになりました。すなわち、室町幕府とよばれる所以をつくったのは、足利義満であり、細川頼之だったということになります。


■「康暦こうりゃくの政変」(細川氏)

他にも細川頼之は、足利義詮の悲願、南北朝の統一にチカラを注ぎます。そのころの南朝は、九州に絶大な影響力をもっており、大宰府にいた後醍醐天皇の息子・懐良親王かねよししんのうの勢力を衰退させるために、同じ足利一門の今川了俊いまがわりょうしゅん(貞世)を九州探題に任じ、九州の平定を目指しました。

しかし、あるとき越中国(現:富山)で守護代と国人の争いが始まったそうです。このころの越中国の守護は、斯波義将しばよしゆきでしたが、斯波義将は京都にいたので、越中国には守護の代理をたてていました。

越中国の守護代と国人の戦は、守護代が勝利しました。敗れた国人たちは、細川頼之の所領に逃げ込んだそうです。しかし、越中国の守護代は、細川頼之の所領に乗り込み、国人たちを殺害し、さらには所領を焼き払ったといいます。

これに怒った、細川頼之は、斯波義将と対立を深めていきますが、足利義満が一度は諫めます。しかし、細川頼之に反発する、斯波氏は、山名氏、土岐氏、京極氏などと連携して、足利義満の「花の御所」を囲み、細川頼之を政事から追放するように申し出ます。

足利義満は、やむを得ず斯波氏の要求を認め、細川頼之の「管領」の任を解き、細川頼之は自らの領地、四国へと下りました。そして、次の「管領」は、細川頼之を追い出した張本人、斯波義将が担うことになりました。

これが、足利義満21歳。1379年(康暦元年)におきた、「康暦の政変」になります。足利義満の謀事というわけではありませんが、この出来事から、危機感を持ち、影響力のある武家勢力を衰退させる必要があると感じたのかもしれません。


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