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■【より道‐110】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_ 六角高頼という男

ふと、思うのですが「応仁の乱」にかかわった、八代将軍・足利義政よしまさから、十五代将軍・足利義昭よしあきまでの間を生き抜いた室町将軍たちのことをじぶんは、よくしりません。

織田信長が活躍した戦国期は、なんども脳裏に刷り込まれているので、なんとなく経緯を理解していますが、どうも歴史のカゲに隠れてしまっている時期が、我が家のファミリーヒストリーにはとても重要のようです。

「応仁の乱」後には、戦国期の突入を決定づけた、足利氏の続・お家騒動、十代将軍・足利義稙よしたねと十一代将軍・足利義澄よしずみの家督争いがおきます。

そのあたりの時代を語るためには、マイナーな人物ではありますが、六角高頼たかよりという男について記す必要があると思います。


■ 佐々木一族

六角氏を語るには佐々木氏の歴史を紹介する必要があります。じぶんの記事では、何度も紹介していることですが、なるべく簡潔にご紹介します。

六角氏の前身は、近江国や出雲国・隠岐国などの守護をしていた佐々木氏になります。室町幕府末期、源頼朝よりともと共に源平合戦で活躍した、佐々木秀義ひでよしからの説明がちょうど節目ですかね。

鎌倉幕府創設に功績を残した佐々木一族は、近江国をはじめ、17か国もの守護を任されますが、後鳥羽ごとば上皇と鎌倉幕府が争った「承久じょうきゅうの乱」で一族のほとんどが朝廷側に付き敗れることになりました。

しかし、一族のなかで、唯一鎌倉幕府に味方して勝利に貢献した人物がいます。それが、佐々木信綱のぶつなです。

佐々木信綱のぶつなは、佐々木氏の家督と近江国の所領を与えられ、四人の息子に領地を分け与えました。そして、その子孫たちが、それぞれ大原氏、高島氏、六角氏、京極氏を称しました。


■佐々木一族の宗家

佐々木信綱のぶつなは、生前に家督と多くの所領を三男の佐々木(六角)泰綱やすつなに譲っていました。しかし、長男の佐々木(大原)重綱しげつなは、その対応に納得がいかず、鎌倉幕府に訴訟を起こして大原荘8,000貫の領地を得たそうです。しかし、長男にも関わらず佐々木氏の宗家は継げず、六角氏が宗家を継ぐことになりました。

六角氏は、その後、北条平氏の政事に従い、御家人として活躍しますが、後醍醐ごだいご天皇と足利尊氏たかうじ、佐々木(京極)道誉どうよが起こした「元弘げんこうの乱」のときも、鎌倉幕府のに属し六波羅ろくはらの防衛をして戦いに敗れました。

しかし、佐々木(京極)道誉どうよのはからいで、六角氏は、佐々木一族の宗家として存続することを許されました。この時から、宗家は、六角氏ですが、室町幕府の政事に影響力があるのは、京極氏という、歪な関係が生まれました。

その後の「観応の擾乱」では、将軍、足利尊氏たかうじではなく、弟の足利直義ただよしに属すなど、時世をよみ違うこともありましたが、最終的には、佐々木(京極)道誉どうよとともに、北朝と室町幕府を支えました。


■京極高詮

もしかしたら、中世のお家騒動は、六角氏が一番はじめだったかもしれません。佐々木(京極)道誉どうよと同じ時代を駆け抜けた、六角氏頼うじよりには、息子、六角義信よしのぶという、嫡男がいましたが、わずか、17歳で亡くなってしまいました。

そこで、佐々木(京極)道誉どうよは、自らの孫、京極高詮たかのりを、六角氏頼うじよりの養子にして、家督を継がせようとしますが、なんと、六角氏頼うじよりは、晩年の40歳の頃に、息子、六角満高みつたかを授かりました。

そのため、京極高詮たかのりはしばらく、後見人として六角氏を治めましたが、六角満高みつたかが12歳で元服したころ、六角氏から追い出されてしまいました。

このころから、六角氏と京極氏の因縁が生まれてしまったのかもしれません。


■嘉吉の土一揆

六代将軍・足利義教よしのりが赤松満祐みつすけに殺害されると、混乱に乗じて、近江国坂本で「嘉吉の土一揆」が発生しました。その責任をとらされたのが、六角満高みつたかの息子で、家督を継いでいた近江国守護の六角満綱みつつなです。

六角満綱みつつなは、幕府から隠居を命じられ、息子の六角持綱もちつなに家督を譲ります。

しかし、六角持綱もちつなは、やんちゃだったのでしょうか。家臣たちが六角持綱もちつなの無道に我慢できず、次男の六角時綱ときつなを擁立して室町幕府に訴えを起こしました。

当時は、「嘉吉の乱」で六代将軍・足利義教よしのりが殺害されてまもなく、将軍不在の時期でしたので、管領の畠山持国もちくにが対応しますが、その訴えを退かせました。

すると、六角時綱ときつなの家臣たちは、幕府の決定を無視して、自らの手で父親の六角満綱みつつなと長男・六角持綱もちつなを追込み、自害させるという暴挙にでました。

そんなことをされると、室町幕府は面子がたちません。ちょうどそのころ、管領は、細川勝元かつもとに代わっていましたが、仏の道に進んでいた三男の六角久頼ひさより還俗げんぞくさせて家督を継がせるようにしました。

さらには、細川勝元かつもとの叔父で、侍所を務めていた、京極持清もちきよに近江国の平定を依頼し、六角久頼ひさよりと共に六角時綱ときつなを討伐して、六角氏のお家騒動が一時的に収まりました。


■ 六角高頼

六角高頼たかよりは、六角久頼ひさよりの長男として誕生しますが、幼くして父親を亡くしてしまいました。その理由は、京極持清もちきよの内政干渉が激しく、自害してしまったということです。

さらに、六角高頼たかよりは、室町幕府に追放されてしまい、六角時綱ときつなの息子、六角政堯まさたかが近江国の守護になるという、ややこしいことが起こります。

しかし、六角政堯まさたかもやんちゃなんですかね。家臣の守護代を殺害したということで、六角高頼たかよりが復権をして家督を継ぐことになります。

そして、「応仁の乱」が起こるのです。六角高頼たかよりは、山名宗全率いる西軍に加勢して、東軍の六角政堯まさたかや京極持清もちきよの東軍と戦います。

六角高頼たかよりの凄いところは、この頃、六角政堯まさたかを打ち破ったということです。

さらには、京極家のお家騒動、「京極騒乱」が起きたことで、一進一退の戦いを続けますが、「応仁の乱」が終息する頃には、京極家が衰退したことで、南近江国を制して、近江国の守護を死守しました。


六角高頼たかよりの凄いところは、ここからなのですが、次回に記そうと思います。


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