■【より道‐107】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_「応仁の乱(自習):後編」
「応仁の乱」は、政事で対立していた、細川勝元と山名宗全が畠山氏のお家騒動を利用したことで、戦に発展しました。
なぜ、ふたりが対立していたかというと、「嘉吉の乱」で山名氏が討伐した赤松氏の再興を細川勝元が支援したからだと言われていますが、室町幕府に権力が集中して、朝廷のチカラがなくなっていたことも「応仁の乱」に発展した一つの要因だったと思います。
ただし、私たちの日本史は、ペリーが来航したことで、尊王攘夷が叫ばれ、江戸幕府から朝廷への大政奉還が行われると、朝廷がチカラをつけました。
その結果、日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争にまで発展してしまい、亡国寸前まで追い詰められるのですから「公家一統」や「公武一体」も、正しいものではないでしょうね。
■細川勝元と山名宗全
三管領の畠山氏は、畠山持国が亡くなり、お家騒動が起きています。斯波氏は、当主の早世が続き、政事にかかわれません。すると権力は細川氏に集中します。
一方、侍所を担う四職のうち、赤松氏は「嘉吉の乱」で討伐されてチカラを失っていますし一色氏は、六代将軍・足利義教に当主を粛清されてからは、カゲを潜めています。京極氏は六角氏のお家騒動に手を焼いている状況ですので、四職では、山名氏の勢力が増しているという状況です。
そんななか、細川勝元が赤松氏の再興に動き出し、山名宗全との対立を生んでしまいます。
すると、足利義政の母親、日野重子が死去したことを口実に反逆者となっていた畠山義就を赦免させて、山名宗全が、それを支援したのです。
これが「応仁の乱」の決定的な要因。幕府内の勢力争いとなります。
■追い打ちかける京極騒乱
さまざまな思惑のもと東軍と西軍にわかれて戦いはじめた「応仁の乱」ですが、追い打ちをかけるように京極氏のお家騒動、「京極騒乱」が起きてしまいます。
それは、東軍・細川勝元と共に戦っていた、京極持清の長男、京極勝秀が病死してしまったことがキッカケでした。さらには、長年、京極氏をさせえてきた家長、京極持清も2年後に亡くなってしまい、後継者を定めることができなかったのです。
京極持清が、亡き京極勝秀の後を継ぐ、次期当主を定めていればよかったのですが、京極勝秀の幼い息子を巡って、もめに揉めてしまいます。それは、正室の子に、京極孫童子丸。庶子に京極乙童子丸という二人の息子がいたからです。
さらにややこしいのは、京極持清の三男の京極政経は、正室の子、京極孫童子丸を、次男の京極政光は、庶子の京極乙童子丸を擁立しだしたのです。
そこに、管領・細川勝元が、しゃしゃり出て、京極勝秀と正室の子、京極孫童子丸に家督継承することを認めると、京極乙童子丸と、京極政光は、西軍に寝返ってしまったのです。
京極家の「応仁の乱」は、近江国の奪い合いでした。近江国は、もともと、佐々木一族の同族で宗家の六角氏の領地でしたが、六角氏も長い年月、お家騒動が続いていまして、そのお家騒動に京極持清が介入して、六角氏の当主、六角久頼を自害に追い込んでしまうという遺恨が残っていました。
さらに、さらに、京極持清が亡くなる間際に近江国の守護となっているので、六角久頼の息子、六角高頼が大いに反発します。むろん、六角高頼は「応仁の乱」で西軍につきました。
そこに、京極乙童子丸と、京極政光が加入するわけですから、かなりカオスな状況です。
さらに、さらに、さらに、家督を継いだ東軍の京極孫童子丸が、早世してしまい、京極家の家督を三男の京極政経が継ぎます。
その判断に怒る、京極乙童子丸と次男の京極政光でしたが、京極政光も間もなくして亡くなってしまいました。
すると、京極家の争いは、東軍・京極政経と、西軍・京極乙童子丸。名を改め、京極高清の戦いとなるのです。
■ 終結
もともと「応仁の乱」が勃発する前から、有力武家の「お家騒動」が起きていましたが、その争いに便乗して、足利義尚と足利義視の「将軍後継争い」に発展。そして、細川勝元と山名宗全が、「権力争い」に利用したというところでしょうか。
1473年(文明五年)に山名宗全と細川勝元が亡くなると、翌年1474年(文明六年)に息子の山名政豊と細川政元が和睦を結び、西軍の畠山義就や大内政弘などを攻撃しだしました。
それでも、西軍は、大内政弘を大将にして戦い続けますが、1476年(文明八年)に、足利義視が足利義政に恭順を誓い罪を不問にすると、足利義政が西軍の大内政弘に御内書を送ります。
そして、1477年(文明九年)に西軍大将の大内政弘は東軍に正式に降参し、九代将軍・足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵されて、「応仁の乱」は終結しました。
■ その後
しかし、畠山氏の家督争い。そして、六角氏と京極氏の同族争い。そして、京極氏の家督争いは解決していません。
畠山氏の家督争いは、「応仁の乱」終結後も続き、管領・畠山政長が、幾度となく、畠山義就討伐作戦を試みますが膠着状況が続き、戦いは子孫たちまで続きました。
六角氏と京極氏の同族争いは、六角高頼が南近江を死守して、北近江は京極高清の領地となりました。飛騨は、京極高清の舅、斉藤氏に奪われましたかね。
京極氏の家督争いは、京極高清が、京極政経の息子、京極材宗を自害に追込み勝利しますが、「応仁の乱」や「京極騒乱」でチカラを失い、わずかに残っていた北近江の領地も、やがて、浅井氏の下剋上により衰退してしまいました。
一方、京極政経は、出雲に下り、同族の尼子経久に、京極氏代々の事跡を集めた「佐々木文書」と、孫の吉童子丸の身を託し亡くなりました。
その後、吉童子丸は、行方不明となり、佐々木京極氏の意思は、佐々木尼子氏が継ぐことになった。というのが、我が家のファミリーヒストリーにつながっていくのだと思います。
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