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■【より道‐84】戦乱の世に至るまでの日本史_室町幕府の六職_今川氏

■ 桶狭間の戦
桶狭間の戦は、永禄三年(1560年6月12日)、尾張おわり国桶狭間で少数の軍勢を率いる織田信長が駿河の今川義元(よしもと)の大軍を急襲して、義元(よしもと)の首を討ちとったことで知られる日本史上有名な合戦です。

その結果、信長は天下統一の野望を果たす道を歩みはじめましたが、一方の今川義元(よしもと)は信長の引き立て役を演じるという不本意な役まわりを演じただけで、雄図ゆうと空しく道半ばで生涯を終えました。また、それまで今川氏に属して手伝い合戦にかりだされていた三河の徳川家康が、独立のチャンスをつかんだことで徳川氏にとっても幸運な戦でした。

しかし、それまでの今川義元(よしもと)は駿河するが国および遠江《とおとうみ》国の守護大名で、「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者でした。三河《みかわ》国や尾張《おわり》国の一部にまで領地を広げて威勢をふるっていたのです。織田軍を一蹴した後は、上洛して天下に号令をかける野望を抱いていたとも噂されていました。

■今川氏発祥地
今川氏は清和源氏足利氏の支流で、現在の愛知県西尾市今川町には愛知県によって建てられた今川氏発祥地の石碑があるそうです。今川氏の祖は足利一門吉良氏の所領から三河みかわ幡豆はず郡今川荘(現在の今川町周辺)を分与された吉良国氏きらくにうじあらため今川四郎(しろう)と言われています。

つまり、今川氏からみれば、吉良氏は本家ですが、室町時代には今川氏のほうが六職に選ばれ、吉良氏は選ばれていません。しかし、吉良氏も室町幕府を支える有力な氏族ではありました。後年、江戸時代の赤穂浪士の討ち入り事件では、子孫の吉良上野介が首を討ちとられて、引き立て役という損な役割を演じました。

■今川了俊と難太平記
今川氏で著名人を一人だけあげると、織田信長の引き立て役を演じた今川義元(よしもと)になりそうですが、それは一方的に偏った見方にすぎません。実は今川了俊(りょうしゅん)という文武両道に秀でたすごい人物が現れています。

武の面では3代将軍・足利義満時代の1370年(建徳元年/応安3年)頃に、管領の細川頼之ほそかわよりゆきから九州探題に任命され、「観応の擾乱」後に征西大将軍せいせいだいしょうぐん懐良親王かねよししんのう(後醍醐天皇の息子)を奉じた南朝方の菊池武光きくちたけみつや尊氏の庶子(直義の養子)である足利直冬あしかがただふゆや筑前の少弐頼尚しょうによりひさ等を相手取って撃破し、大宰府を占領するなどの戦功をあげました。

文の面では、和歌は祖母の香雲院こううんいん京極為基きょうごくためもと冷泉為秀れいぜんためひでらに学び、連歌では二条良基にじょうよしもとらに学び、二条良基にじょうよしもと主催の年中行事歌合に参加していたといわれています。

晩年には学者として著作に専念し、古典『太平記』を難ずるという意味の歴史書『難太平記』で、「応永の乱」における自らの立場や、太平記に記されない一族の功績を記していますが、これは了俊(りょうしゅん)が生半可の教養人ではなく、並々ならぬ力量の持ち主だったことを後世の読者に伝える貴重な書です。


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