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■【より道‐93】戦乱の世に至るまでの日本史_義満の謀事「明徳の乱」

以前の記事でも触れましたが、六分の一殿と呼ばれた山名一族が衰退した「明徳の乱」について、再度、記しておこうと思います。それは、ご先祖様の情報をネットで検索していると以下の文章をみつたことがキッカケです。

「但馬国衆は山名氏清方と山名時煕方に相分かれて戦い、有力国衆の多くは山名氏清に味方し、土屋氏、長氏、奈佐氏らが勢力を失った」

他にも伯耆国長氏を調べると以下のような文章を発見しました。

伯耆長氏の一族は但馬国の国人・長氏の支流と考えられており、室町時代の伯耆国人衆の中では唯一、室町幕府奉公衆を務めていた。独立性の高い奉公衆系の武士はしばしば守護と対立することがあったが、伯耆長氏に関しては守護家と比較的良好な関係を維持していたことが文献などで確認されている。

断片的な情報ですが、奉公衆ということは、征夷大将軍・足利義満の直属軍だったということになります。すると、我々のご先祖様は、「明徳の乱」で同族同士の戦に発展し衰退した可能性があるというとでしょうか。


■山名一族の幕府帰順

鎌倉時代の末期から、足利尊氏と共に南北朝の動乱を駆け抜けた山名時氏(ときうじ)ですが。山名時氏(ときうじ)は、「観応の擾乱」で足利尊氏の弟・足利直義ただよしに味方して、南朝側に寝返り、足利直義が亡くなった後も、足利直冬ただふゆ(直義の養子/義詮よしあきらの異母兄)に賛同して最後まで幕府軍と戦いました。

足利尊氏が亡くなり、足利義詮が第二代・征夷大将軍を引き継ぐと幕府内の権力争いが一層激しくなります。強引な政策を進める執権(管領)の細川清氏きようじが失脚すると、後任に当時13歳の斯波義将よしゆきが就くことになりました。

わずか13歳の斯波義将しばよしゆきが、将軍を補佐する執権(管領)の職を全うすることなどはできません。実際には、父親の斯波高経しばたかつね後見人こうけいにんとして幕政を指揮することになり、重要な職には、斯波一族に就かせたそうです。

そのころ、足利義詮は源氏一門を結束させて南北朝統一を図るために大内氏や山名氏へ帰順工作を行いました。山名時氏(ときうじ)は、領国の安堵を条件に室町幕府に帰順することになります。その条件は、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するというもので、周りの大名が不満を募らせるほどの好条件だったといわれています。

この優遇された条件を叶えたのは、ともに、足利直義ただよし派閥として戦った、斯波高経たかつねのチカラが働いたのだと思います。

その後、執権(管領)は斯波義将から、細川頼之に代わり、足利義詮は、まだ幼い足利義満を細川頼之に託し崩御しました。


■六分の一殿

山名時氏(ときうじ)は九人の息子に恵まれ、息子たちに各地の守護職を譲り山名一族は繁栄していきます。

山名時氏(ときうじ)が亡くなると、長男の山名師義(もろよし)が家督を継ぎますが、五年後に亡くなってしまいます。すると、山名師義(もろよし)の息子たちが、まだ幼いという理由で、山名師義(もろよし)の弟で五男の山名時義(ときよし)が家督を継ぐことになりました。

なぜ、五男の山名時義(ときよし)が、家督を継いだのか、よくわかりませんが、不満を持っていたのは、山名時義(ときよし)の兄弟たちです。

しかし、山名時義(ときよし)は、一族のキモチをなんとか治めながらも、政事まつりごとで対立をしていた、三代将軍・足利義満の育ての親で執権(管領)の細川頼之ほそかわよりゆきを追放させるために、斯波義将よしゆきや土岐頼康よりやすらと共に「花の御所」を軍勢で囲み「康暦こうりゃくの政変」を起こしました。

このクーデターが成功して細川頼之は本領の四国へ下り、山名時義(ときよし)は、あらたな所領をあえられて、全国66ヶ国の内11ヶ国を領有して、「六分一殿」と呼ばれる程の勢力となりました。


■足利義満の逆襲

足利義満の育ての親で征夷大将軍として基盤を築いてくれたのは、「執権(管領)」細川頼之でした。その育ての親を追放させようと「花の御所」を囲んだのが、斯波義将よしゆきはじめ、土岐氏、山名氏、京極氏でした。

クーデターは成功し細川頼之に継いで「執権(管領)」の座に着いたのは、細川頼之を追放した張本人、斯波義将です。足利義満は、鎌倉時代の源氏と北条氏の関係のように征夷大将軍がお飾りとなり、政治の実権を斯波氏に支配されることを危惧して「執権」の権限を分散させることにしました。

それは、軍事的長官である「侍所」と将軍直下の軍「奉公衆」という役職をあらたにつくり、将軍直下の役職に政治を司る「管領」。軍事を司る「侍所」。将軍直下の独立軍「奉公衆」とすることにしました。

さらに足利義満は、全国の仏門や神院を行脚して政治的な影響力を増すことに成功すると斯波義将に代わり、細川頼之の弟で息子の細川頼元に「管領」の職を任じました。

そして、チカラをつけた足利義満は、有力武家を衰退させて、南北朝問題を解決に乗り出していくのです。

■明徳の乱

「康暦の政変」で幕府の意に背いた山名時義(ときよし)が亡くなると息子の山名時熙(ときひろ)が家督を継ぎました。

ここで、足利義満が動きます。「山名時義(ときよし)は生前将軍に対し不遜な態度があり、息子の山名時熙(ときひろ)にもそれが見られる」として、山名時義(ときよし)の兄、山名氏清(うじきよ)と、本来なら家督を継ぐはずだった、山名師義(もろよし)の息子、山名満幸(みつゆき)に山名時熙(ときひろ)討伐命令を下しました。

足利義満が山名氏の家督争いを煽ったわけです。山名時義(ときよし)が亡くなったのは、1389年(明徳元年)ですので「土岐康行の乱」と同タイミングで、足利義満は謀事を企てたということですね。

そして、山名時熙(ときひろ)は、山名氏清(うじきよ)と山名満幸(みつゆき)に追放され、山名氏一族の問題は解決したと思われましたが、足利義満は、山名時熙(ときひろ)を許すことにしました。

その、判断に怒った、山名満幸(みつゆき)は、南朝方に通じて綸旨を得ると、明徳二年の暮に京へと進撃します。これが、1391年(明徳二年)「明徳の乱」です。

山名満幸(みつゆき)は、1日の合戦で敗れ去ったそうです。幕府軍の死者は260人余、山名軍の死者は879人。また、足利義満が増強していた直轄軍の「奉公衆」はこの戦いで大いに働き、将軍権力の力を示したそうです。


ご先祖様が、幕府軍、山名軍どちらの軍勢にもいたんだろうなと思うと、我々のファミリーヒストリーにとっても、大きな戦いだったんだろうなと思います。

その後、山名満幸(みつゆき)と叔父たちは、数々の領地を取り上げられ、幕府軍に味方した山名時熙(ときひろ)には、但馬国、伯耆国、因幡国が安堵されました。


じぶんは、「明徳の乱」が起きなければ、六分の一殿といわれるほど、大勢力となった山名一族が再び南朝(大覚寺統)に寝返る可能性が十分にあったと思います。山名一族を衰退させることで、南北朝合一につながったんだなと、思った次第です。


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