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■【より道‐54】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「倒幕の決意」

鎌倉時代と室町時代は、時代として区切られてるので、全く関係ないという感覚で大人になりましたが、歴史を学んでみると、そんなことはありませんでしたね。

いつの世も、一人の人間に権力が集中して独裁政治が行われると、その国で暮らす民衆が苦しんでいるイメージがあります。鎌倉時代末期には北条氏に権力が集中して民が苦しみ、後醍醐天皇を旗頭に源氏一族のクーデターが起きたわけです。

北条氏滅亡から五百年後、「王政復古の大号令」により、形式的に武士政権が終焉して、明治の時代に天皇陛下が統帥権を持ちましたが、結局は軍人という名の武力が日本を統治し、日本民族は滅亡する一歩手前までいってしまいました。

そう考えると、自由主義・民主主義の時代をわずか八十年しか経験していない我が国ですが、現代のイギリスや日本のように政治から一歩引いた位置に王朝が続いていると、うまくガバナンスが効いてくるようにも思えます。

これからも日本の象徴は、日本が古来から大切にしている「心」の象徴として存在していただけたらいいなと思ったりもしています。

ご先祖様たちが、天皇のために戦ってきたことは、血族争いの歴史でもありますが、それは、日本人としての「心」の戦いを積み重ねてきたことだと思うからです。


■ 源氏一族の決意
足利高氏が倒幕を決断したのは、父である足利貞氏あしかがさだうじの死がキッカケだったとも言われています。

足利貞氏が亡くなったのは、後醍醐天皇が京都を脱出した「笠置山の戦」が起きたタイミングと重なりました。当時、足利高氏は喪中を理由に追討軍の出陣を断りますが、北条氏はそれを許さず、出兵を強要してきたそうです。

仕方なく足利一族は、京都に向けて出発しますが、後醍醐天皇に弓など引きたくない足利高氏は、鎌倉の地からゆっくりと上洛を目指しました。

京都に到着する頃には「笠置山の戦」で敗れた後醍醐天皇は捕らえられ、隠岐への流罪が決定していました。また、親交のあった日野資朝ひのすけともの斬首を目の当たりにした足利高氏は、倒幕を決意し、鎌倉の地に戻っていったといわれています。

鎌倉の地に戻ると、父・足利貞氏の葬儀の準備をはじめます。しかし北条氏は、後醍醐天皇の後処理に追われているという理由で幕府主催の葬儀を断ってきたそうです。 

そこで、一族のみで集まり、本領の足利郷、現在の栃木県で葬儀をあげたといわれています。奇しくも、その葬儀には、新田氏や斯波しば氏など源氏一族が集まったわけですから、このときに倒幕の決意を主要人物に伝えたかもしれません。

一方、幕府軍に攻められ、赤坂城あかさかじょうから退却した楠木正成くすのきまさしげ軍ですが、なんと、幕府が城の復旧作業を完了させたタイミングで、赤坂城を奪還しました。この頃から楠木正成は、あきらかに足利高氏とつながっていたと思います。

それは、楠木軍が挙兵すれば、幕府は必ず足利氏はじめ源氏一族に追討軍として出兵を要請してくるはず。その時こそ、千載一遇の機会。鎌倉の守備が手薄になるので、北条氏を討って、世の中を変えるという作戦です。

そのためには、キーマン二人いました。それが、新田義貞にったよしさだ佐々木道誉ささきどうよこと、のちの京極道誉きょうごくどうよです。このふたりにも、楠木軍が挙兵する前から心のうちを明かしていました。

まず、佐々木道誉には、隠岐に流された後醍醐天皇の命をなんとしてでも守ってほしいということ。そして、足利一族が挙兵したら手出しをしないでほしいということを約束したそうです。

また、新田義貞には、楠木正成追討軍が編成された暁には、手薄になった鎌倉に乗り込み、北条氏を討つよう話をつけていたそうです。

すると、楠木正成は、勢力を増しながらゲリラ戦などを駆使して、実に半年間ものあいだ関西各地で暴れまくったそうです。さらには、当初の下赤坂城だけでなく、上赤坂城、千早城を築城をして籠城を磐石の体制にします。

また、流罪となった隠岐では、後醍醐天皇が脱出に成功しました。この脱出を手配をしたのが、佐々木道誉の兄である佐々木泰綱ささきやすつな、のちの六角泰綱ろっかくやすつなでした。

なんとか隠岐から脱出した後醍醐天皇は、伯耆国の名和の港へ漂着します。すると、地頭である名和長年なわながとしが後醍醐天皇を保護し領地内の船上山せんじょうさんに立て籠りました。

このような状況下になると、鎌倉幕府は、いよいよ追討軍を編成しますが、足利高氏の読み通り、足利一族に追討軍の声がかかったのでした。

 

この頃のご先祖さまの様子を想像すると、かなり複雑な状況になっています。

まず、隠岐・出雲の守護は、平安時代末期の「源平合戦」のとき平氏に味方をした佐々木義清ささきよしきよの五代目の子孫が守護職となっていました。なので、佐々木道誉からすると、同族の遠戚関係にありました。

佐々木道誉の遠戚である、隠岐・出雲の守護職は、鎌倉幕府からの命で、後醍醐天皇を監視する立場にありましたので、反乱軍として共に倒幕を果たそうと説得するのも難しいです。そこで、兄である佐々木泰綱ささきやすつなに倒幕計画を託したということになります。

隠岐・出雲の守護職は、隠岐の島を脱出して船上山に立て籠った後醍醐天皇を奪還しようと挙兵するのですが、その一族のなかで、後醍醐天皇側に寝返った一族がいました。それが、塩冶えんや氏と言われています。

我が家の「家系図」にのっている長谷部信豊はせべのぶとよさんは、名和長年が近郷の武士に声をかけたことに呼応して、船上山の戦に参戦し討ち死にしたと記載があります。

佐々木氏は、京極氏や六角氏、大原氏や米原氏などに名を変えて、後に尼子氏の旗のもとに集まるわけですから、「尼子の落人」と伝わる我が家の家訓の原点は「元弘の乱」にあったということになります。


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