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■【より道‐96】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「嫡子断続」

■四代将軍と五代将軍

第三代将軍・足利義満(よしみつ)は、有力大名であった土岐氏、山名氏、そして南朝勢力を衰退させることで南北朝合一を果たしました。その後、「応永の乱」で西国の有力大名・大内氏まで弱体化させると、足利義満(よしみつ)は自身に「太上天皇だじょうてんのう」の尊号が贈られないかと、朝廷に対して働きかけを行ったそうです。現代でいうと、明仁上皇と同じ位ですね。

1408年(応永十五年)足利義満(よしみつ)は、四十八歳で亡くなると、その三日後には、朝廷から「太上天皇だじょうてんのう」の尊号が送られたそうですが、息子で第四代将軍・足利義持(よしもち)は、先例がないとして辞退したそうです。

足利義持(よしもち)は、生前の足利義満(よしみつ)と仲が悪かった。というか、父の政事のやりかたに反発していたそうで、朝廷や公家、守護大名に対する政策や明朝との交易政策をことごとく否定していきました。

日本国が中国の朝貢国ちょうこうこくにならなくなったのは、足利義持(よしもち)のおかげですね。

それだけ、足利義満(よしみつ)は、傲慢で傍若無人、義に反する人だったということでしょうか。まあ、明との朝貢関係を築いた人なので、大内義弘おおうちよしひろに「強きを助け、弱きを挫く」と批判されても仕方がないのかもしれません。


■六代将軍の死

足利義満(よしみつ)の死後、室町幕府の政治力は徐々に弱まっていったと言われていますが、それは、専制政治から方針を変えて第四代将軍・足利義持(よしもち)が大名たちと調和を保ちながら長年政権を維持したからです。そして、1423年(応永三十年)になると、一人息子の足利義量(よしかず)に将軍職を譲ります。

しかし、足利義量(よしかず)は、1425年(応永三十二年)にわずか17歳で亡くなってしまいました。しかも、足利義量(よしかず)には子が無く、また足利義持(よしもち)にも他に男子がいなかったため、足利義持(よしもち)が将軍代行として1428年(正長元年)に死去するまで政務を執ることになりました。

なぜ、足利義持(よしもち)は後継者を決めなかったのでしょうか。その理由は、足利義量(よしかず)が急死したときに、石清水八幡宮で籤を引いたところ『新たに男児が生まれる』と出て、さらにその日に男児誕生の夢をみたからだと言われています。

しかし、足利義持(よしもち)は、その後子宝には恵まれませんでした。そうなると足利家を継ぐのにふさわしい人物は足利義満(よしみつ)の子、すなわち足利義持(よしもち)の弟たちとなるのですが、足利義持(よしもち)は後継者を指名することを拒みます。

それは、弟たちが、将軍職に耐えうる器ではないと考えていたからだといいます。そして、自棄になった足利義持(よしもち)は、後継は自分の死後にくじで決めるよう宿老たちに伝えました。


■日本の未来

朝廷が治める世を武士たちが守る。公武一体の世をつくり上げたは、初代征夷大将軍・足利尊氏(たかうじ)でしたが、孫の足利義満(よしみつ)は、武士、公家、仏の道の権力の頂点を独占しました。

息子の足利義持(よしもち)は、父の政策を否定し再び、人々の心に寄り添うようになりましたが、後継の将軍に、その意思を引き継ぐことができませんでした。

足利義持(よしもち)の時代までは、父子の関係を保ちながらも帝王学を学び、世に権力を示しながら徐々に引継ぐ体制がありました。そのため、足利義持(よしもち)の弟たちはみな、仏の道へ進んでいたそうです。

しかし、第5代将軍・足利義量(よしかず)の突然の死によって、籤引きという天運に任せて誕生したのが第6代将軍・足利義教(よしのり)ということになります。

足利義教(よしのり)の政事がきっかけに、日本は戦国の道を歩みだすわけですから、これこそ、我が国にとって、時代を超えた因果応報だったのだろうなと思いました。


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