見出し画像

■【より道‐59】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「船上山の戦」

こんな、ほとんどの人が注目しない戦に、ご先祖様がかかわっていたとは、思ってもみませんでした。

「家系図」にある長谷部信豊のぶとよさんの隣に注記が記載されていました。


元弘二年壬申三月夜後醍醐皇隱岐国御山山有伯列舩上皇居此時名和亦席長年近郷之武士招天皇守護信豊催促應舩上至同月廿九日大手合戦討死


漢字ばかりの昔の人が書いた文字なので、ちゃんと読めず、誤字もあるかもしれませんが、なんとなく読める部分を解釈すると、後醍醐天皇が隠岐国を脱出したときに名和長年なわながとしに呼ばれて、後醍醐天皇を守るために「船上山の戦」に参戦して討ち死にしたと読めます。

ということで、今回は「船上山の戦」について調べてみようと思いました。



■船上山の戦
隠岐の島を小舟で脱出した後醍醐天皇は、鳥取県の名和の港に漂着したといわれています。隠岐の島と名和港の距離を調べると、なんと100キロほど離れていますので、かなり決死の脱出劇だった、と想像されます。

名和港に流れ着いた後醍醐天皇は、岩に腰かけて、この地を治めている者の名を住民から聞き出します。すると、このあたり一帯は、鎌倉幕府から悪党とよばれている地頭の名和長年なわながとしだということがわかります。

後醍醐天皇は、名和長年と面会をして、一行を保護するように依頼し、名和一族は、後醍醐天皇を助ける道を選んだということになります。

おそらくこのとき、後醍醐天皇を捕縛して、幕府に突き出すこともできたはずです。しかも、この時代、会ったこともない人間の与太話を信じたのはなぜでしょうか。おそらくではありますが、錦旗きんきという、天皇の軍の旗を持っていたのではないかと想像したりもします。

とにかく、決死の覚悟をきめた、名和一族は、近隣の村から仲間を集め、断崖絶壁の船上山を戦の場所として選びました。山の木を切り倒し、多くの軍勢が立て籠っていると、見せかけるために、旗やのろしを各方面からあげました。

そして、村人たちに兵糧を運ばせると、あっという間に戦いの準備を整えて、後醍醐天皇が漂着して4日後には、船上山に登頂して陣をはったそうです。このとき、名和長年は、後醍醐天皇を背負って山を登ったそうですよ。

さて、では、誰が敵方になったかというと、鎌倉幕府・北条氏より隠岐国の守護を任されている佐々木清高ささききよたかこと、隠岐清高おききよたかです。

ここから、少々ややこしいですが、遡ること平安末期「源平合戦」が起きるとき、源頼朝のもとに、佐々木氏(四兄弟)が駆けつけて活躍をします。しかし、佐々木兄弟には、ひとり腹違いの弟がいました。

それが、佐々木義清ささきよしきよという者です。佐々木義清は、平氏の大将、大庭景親おおばかげちかの娘を娶っていたため、平氏方として参戦し兄弟で敵味方に分かれて戦いました。

しかし、「壇ノ浦の戦」で平氏が敗れると、佐々木義清は、しばらく謹慎しますが、そのうち四人の兄を支えて、功績をあげ、やがて御家人となるまで出世し、「承久の乱」では幕府側について、出雲・隠岐の守護となりました。

その、五代目の子孫が佐々木清高ささききよたかこと隠岐清高おききよたかになります。

一方、「元弘げんこうの乱」で足利高氏とともに京都の幕府軍六波羅に攻め込んだ佐々木道誉、のちの京極道誉は、「源平合戦」で活躍した佐々木氏四兄弟の末裔になります。

佐々木道誉は、足利高氏が謀反を計画するときに、「隠岐に流罪となっている後醍醐天皇の命を守ってくれ」と頼まれていたので、実の兄である佐々木泰綱ささきやすつな、のちの六角泰綱ろっかくやすつなに後醍醐天皇脱出計画を依頼していました。

佐々木清高と佐々木道誉・佐々木泰綱は遠戚関係になるわけですが、身内で鎌倉幕府方と、クーデター側に分かれてしまったということになります。

さらに、佐々木(隠岐)清高一族には、塩冶えんや氏や湯氏という親戚一族がいましたが、佐々木泰綱が塩谷氏や湯氏に後醍醐天皇に味方するよう調略をしていたといわれています。

そんな、根回しなどがあったうえでの、「船上山の戦」が開戦します。

名和氏軍勢200名、佐々木(隠岐)氏軍勢3,000名ともいわれていますが、佐々木(隠岐)一族は、船上山を囲みました。しかし、名和氏の策略通り、各方面の旗やのろしを見て、大軍が待ち受けていると思い込み、攻撃を躊躇したそうです。

すると、山頂からはなたれた流れ矢が一人の指揮官の右目に当たり、軍勢大混乱。さらには、暴風雨も味方して、佐々木一族は崖から落ちていき、敗走したといわれています。

その様子をみた近隣の武将たちは、続々と後醍醐天皇方に味方をします。キーマンを記すと、まず、塩冶氏や湯氏が佐々木(隠岐)清高から寝返って、後醍醐天皇側につき、伯耆から金持氏や日野氏、備中からは、新見氏、成合氏、那須氏、三村氏、小坂氏、河村氏、庄氏、真壁氏などがはせ参じました。

こうなると、形勢は大逆転です。

逃げ帰った佐々木(隠岐)清高の小波城こなみじょうはじめ、伯耆国一帯にある幕府方の城を攻略。鎌倉幕府は、追討軍として足利高氏を送りこみますが、足利一族も後醍醐天皇側に寝返り、佐々木道誉と一緒に六波羅を攻め落としました。

すなわち、名和長年はじめ、山陰地方の武将たちが世の中をひっくり返すキッカケをつくったということになります。

先日、鳥取県日南町にある「金持神社」に参拝をしにいきましたが、そこには、金持氏だけでなく、名和氏も祀られていました。後醍醐天皇が船上山から都へ上洛する際には、自分の母の生まれ故郷である千屋村を通ったと言い伝えもあるそうです。

また、ご隠居の故郷、高瀬近くにある、油野三室ゆのみむろには、氷室神社があり、1333年(元弘三年)に後醍醐天皇が境内に御玉殿を建造させたという言い伝えもあります。

一連の事柄や地域のことを考えると、長谷部信連が日野に流された際に、金持氏を頼りますが、その後も金持氏の庇護のもと、伯耆長谷部一族がその地に根をはっていて、「船上山の戦」のときに、金持氏と共に長谷部信豊が参戦したと考えてよさそうです。


<<<次回のメール【178日目】食の6次産業プロデューサー

前回のメール【177日目】たまげたね>>>

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?