見出し画像

■【より道‐100】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_畠山持国という男

中世のややこしい人名や出来事をファミリーヒストリーの視点で紐解いていくと、じぶんなりにではありますが、だいぶ理解が深まってきました。そして、ようやくですが、わけのわからない「応仁の乱」が起きた原因もわかってきました。

「応仁の乱」の原因をつくったのは、万人恐怖とよばれ、専制政治を推し進めた六代将軍・足利義教(よしのり)だと、個人的には思っています。

それは、父である足利義満(よしみつ)の政事を模倣して、専制政治の体制を目指すと、鎌倉殿である足利持氏(もちうじ)一族を滅亡させてしまうのですが、自らも「嘉吉の乱」で殺害されてしまい、東西将軍不在の時期をつくってしまいました。

また、足利義教(よしのり)は生前、有力武家の家督問題にクビを突っ込んだことで、多くの家でお家騒動に発展します。そして、この有力武家たちによる家督争いが、「応仁の乱」に発展していくのです。

なので、今回は、足利義教(よしのり)が殺害されたのちに、この大混乱の情勢を治めた人物、畠山持国もちくにについて、書いておこうと思います。


■返り咲き

鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)が亡くなると、忠臣・結城氏が、足利持氏(もちうじ)の遺児たちと共に室町幕府と対立する「結城合戦」を起こしますが、その出陣を畠山持国もちくには、拒んだそうです。

足利義教(よしのり)は、自らの命令に背いた畠山持国もちくにを強引に隠居させて、弟の畠山持永もちながに家督を譲らせます。しかし、そのときもわずか「嘉吉の乱」で足利義教(よしのり)が殺害されると、畠山持国もちくには赦免されました。

すると、将軍の後ろ盾がなくなり、家督を奪われることを恐れた畠山持永もちながが、兄の畠山持国もちくにに刺客を放ち暗殺を試みますが、あえなく失敗。大義名分のできた畠山持国もちくには、挙兵をして家督を奪回したそうです。


■ 混乱の世

そのころの日本は、鎌倉殿と室町殿が殺害されたわけですから、東西のリーダーが不在の状態になってしまいました。しかも政事を司る「管領」の細川持之もちゆきは「嘉吉の乱」で将軍を置き去りにして、壁をよじ登りながらも逃走したという事で、有力大名内への求心力がありません。

将軍後継者も幼少ということで日本は大混乱。それでもなんとか、「嘉吉の乱」で足利義教(よしのり)を殺害した赤松氏討伐に、山名宗全そうぜんが立ち上がり、見事討伐に成功。幕府は面目を保ちます。

山名氏はこの功績で、美作国の所領を取り返し、かつて、六分の一殿と呼ばれていたころと同等の勢力を広げました。

しかし、赤松氏討伐で幕府が手薄になったときに「嘉吉かきつの土一揆」が起こってしまいます。最初は、近江国で。その後、京都、奈良と一揆は広がり、幕府は全国に徳政令を命じることになりました。

さらに不幸は続きます。足利義教(よしのり)の長男で9歳の第七代将軍・足利義勝(よしかつ)が、将軍就任後、わずか8ヶ月で死亡してしまいました。死因は、源頼朝のように馬から落ちたともいわれていますが暗殺説もあるそうです。

すると、畠山持国もちくには、細川持之もちゆきから「管領」を引き継ぎます。将軍亡き天下の対応は「管領」の畠山持国もちくにが握ることになったのです。

畠山持国もちくには、次期将軍を足利義勝(よしかつ)の弟・足利義政(よしまさ)を推奨して、足利義政(よしまさ)が八代将軍となります。

そのころ、足利義教(よしのり)の時代に「管領」だった細川持之もちゆきは、細川氏の家督を当時16歳の息子、細川勝元かつもとに譲ることになりました。


■ 熾烈な勢力争い

ここから、細川勝元かつもとと畠山持国もちくにの熾烈な勢力争いが繰り広げられます。

畠山持国もちくには、足利義教(よしのり)に追い出された人々を復権させて懐柔かいじゅうして、じぶんの言うことを聞く勢力を拡大させようとしますが、細川勝元かつもとはこれに反対します。

そんなことばかりするものですから、細川氏と畠山氏の派閥争いは、有力大名一族内で対立するお家騒動を誘発して、細川勝元かつもとと畠山持国もちくにがそれぞれを支援するようなったのです。

・加賀国:富樫教家VS富樫泰高
・近江国:六角持綱VS六角時綱
・信濃国:小笠原宗康VS小笠原持長
・大和国:越智家栄VS筒井順永

ちなみに、三管領の斯波氏は当主の早世が続いたため、この権力争いには参戦できず、畠山持国もちくにと細川勝元かつもとは、長い間、交互に管領に就くことになりました。

・畠山持国(1442年 - 1445年)
・細川勝元(1445年 - 1449年)
・畠山持国(1449年 - 1452年)
・細川勝元(1452年 - 1464年)


■ お家騒動

畠山持国もちくには、「礼儀を在ずる輩(ともがら)」と言われるほどの人物でしたが、自らもお家騒動を起こしてしまいます。散々、他家のお家騒動を煽った因果応報かもしれませんが、その理由は、畠山持国もちくにと正室の間には嫡子がいなかったからです。

そのため、畠山持国もちくにの弟、畠山持富もちとみが家督を継ぐ予定でしたが、じつは、畠山持国もちくにに子がいることがわかります。それは、遊女との間に産まれた子で、名は、畠山義就よしなりといいます。

まるで、足利尊氏(たかうじ)と足利直冬(ただふゆ)の関係みたいです。しかし、足利尊氏(たかうじ)と違うのは、北条家の血筋を継いだ赤橋塔子あかはしとうこと足利義詮(よしあきら)のような正室と嫡子の血筋は、弟の畠山持富もちとみの血筋ということになります。

それでも唯一、じぶんのDNAを継いだ畠山義就よしなりに家督を継いでもらいたいという願いは、第八代将軍・足利義政(よしまさ)が受け入れ、畠山氏の後継者と定められました。

納得いかないのは、弟の畠山持富もちとみと、その息子、畠山政長まさなが、そして、畠山氏の家臣たちです。そして、畠山政長まさながを旗頭に反対勢力が生まれますが、これを好機と捉えたのが、勢力争いをしている細川勝元かつもとや山名宗全そうぜんです。

細川勝元かつもとたちは、畠山政長まさながを支持して、畠山義就よしなりを支持している足利義政(よしまさ)や畠山持国もちくにと真っ向から対立するのです。

そして、まもなく、畠山持国もちくにが亡くなり、家督は、畠山義就よしなりが継ぎますが、畠山政長まさながとの争いは続いていくことになります。

その争いは、室町殿の足利義尚(よしひさ)と足利義視(よしみ)の家督争いを端に、その頃、勢力を二分していた、細川勝元かつもとと山名宗全そうぜんが、東西に別れて戦う「応仁の乱」に継がれます。

畠山義就(よしなり)と畠山政長まさながは各々勢力に加担し戦いつづけるのです。


<<<次回のメール【301日目】オミクロンではなくデルタ

前回のメール【300日目】初症例>>>

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?