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■【より道‐109】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_ 日野富子という女

平安時代末期に後白河法皇ごしらかわほうおうの息子、以仁王もちひとおうが平家討伐を企てると、それを知った検非違使たちが、以仁王もちひとおうを捕縛しようと、兵をあげ内裏に向かいました。

そのころ、内裏の警護を担当していた、滝口武者の長谷部信連のぶつらは、騒々しい気配を察知すると、以仁王もちひとおうに女装して脱出するようにと進言して近江国の三井寺まで逃しました。

そして、自らは内裏に残ると単身、検非違使たち相手に大太刀振る舞いをしたと言われています。しかし、多勢に無勢、4~5人切り伏せたあと、検非違使に捕まり、六波羅で平家の重臣たちに尋問されることになりました。

長谷部信連のぶつらは、以仁王もちひとおうの居場所を追及されると、「知らぬ存ぜぬ、主君のためにこの命をさしだせるのであれば武士の本望」と啖呵をきると、武士の誉と助命され、伯耆国日野にある下榎に流罪となりました。

じぶんは、この日野と名の付く領地は、7世紀に活躍した藤原房前ささきを祖とする公家の日野氏の所領だったのではないかと思っています。日野と名乗る地は全国に多数ありますしね。

今回は、その日野氏の一族で、日本の歴史上で「三大悪女」の一人と呼ばれた日野富子とみこについて記していきたいと思います。


■日野家の歴史

日野氏の歴史は、平安時代に藤原家宗いえむねという公家が山城国宇治郡日野の地に法界寺を創建して、その子孫たちが日野を称するようになったと言われています。

日野氏で有名なのは、鎌倉時代末期に後醍醐天皇と共に、倒幕を企てた日野資朝すけともと日野俊基としもとでしょうか。ふたりとも、公家の中では、それほど高くない地位にいましたが、儒学を学ぶ家職ということで、後醍醐天皇に最も信頼されていたそうです。

そして、日野家がもっとも、チカラをつけたのが、三代将軍・足利義満よしみつの正室に嫁いだころからです。

もともと、天皇家は、伝統的に公家から正室、側室を迎えていまして、日野資子すけこは、100代天皇・後小松天皇ごこまつてんのうの正室となっていました。

そのころ、足利義満よしみつは武家の棟梁だけでは飽き足りず、日野家の妻を娶ることで、天皇家と親族関係になります。その後、足利将軍の正室は、日野家の女性が嫁ぐことが伝統となりました。


■ 三大悪女と呼ばれる所以

八代将軍・足利義政よしまさの正室、日野富子とみこが、なぜ日本の歴史上、三大悪女と言われるのか、そのエピソードを紹介します。

「19歳のときに第一子が誕生するも、まもなく亡くなってしまいました。すると足利義政よしまさ乳母めのと今参局いままいりのつぼねが、調伏ちょうふくしたからだという噂がたち、当人を流罪にした」

「自らの子、足利義尚よしひさを次期将軍にしたいがために山名宗全そうぜんに後見人を頼み、足利義視よしみを擁立する細川勝元かつもととの対立をけしかけ応仁の乱が起きた」

「応仁の乱で庶民が苦しむなか、高利貸しを営み、関所で関税などを徴収して、東西両軍の大名に金を貸し付けた」

「米市場に介入して利益をあげるため、米倉をたてて米商売を計画した」

「土一揆が発生した際、幕府が徳政令を発令しようとした際に、じぶんが、高利貸しのために鎮圧した」

などなど、ひどい言われようです。しかし、この背景には、武家社会の封建主義的な思想が日本の文化となり、女性が日本の政事を司ったことに対する妬みのようにも思えます。

しかし、近年では、日野富子とみこを擁護する声が次第に大きくなってきています。これは、日本でもジェンダーレスが謳われる時代になり、500年の時を経てようやく理解が深まってきたからかもしれません。


■ 日野富子の真意

たしかに、日野富子とみこは、誰よりもお金を稼ぐチカラをもち、自らの夫と子を愛した。ということにつきます。資本を持つものが、幕政に影響力をもつことは、やむを得ません。当時の日野富子とみこの動向についていくつか記していきたいと思います。

まず、「応仁の乱」のキッカケとして、日野富子とみこが、自らの子、足利義尚よしひさを次期将軍にしたいがために、山名宗全そうぜんに、細川勝元かつもととの対立をほのめかしたことが要因といわれていますが、これは、大義名分の後付けのように思えます。

そもそもは、六代将軍・足利義教よしのりが、有力武家の家督相続に口を出したことをキッカケに各家でお家騒動が勃発していまして、その波が、管領・畠山氏や斯波氏にまで波及したことが原因です。ようは、時代を超えた因果応報、ツケが回ってきたのです。

それを、当時、最も権力をもっていた、細川勝元かつもとと山名宗全そうぜんの対立に足利将軍家が利用されたということでしょう。

現に、「応仁の乱」で、戦火の被害で屋敷を失った、日野富子は、1468年(応仁二年)に長女出産のために、細川教春のりはる邸で子を産み、翌年も、次男出産のために、同屋敷を「御産所」にしています。山名宗全そうぜんの庇護は受けていないのです。


■ 日野富子の功績

「応仁の乱」が起こると、京都の街中が火の海となり、多くの屋敷が全焼したと言われています。それは、天皇家も例外ではありませんでした。

そこで、足利将軍の住居、室町第で天皇家と足利家が一緒に住んでいたというのです。まあ、天皇家は、日野家と親族関係ですから当然といえば、当然かもしれませんが、しかし、やがて室町第も全焼してしまいます。すると、日野富子とみこは、天皇家に、もともとじぶんが住んでいた屋敷を提供したと言います。もちろん、費用は、幕府が用立てたそうです。

幕府が用立てるといっても、世は戦乱の最中です。平時ならまだしも大名たちは、戦を続けるには資金が必要です。すると、幕府に入る資金も減少します。旦那様の足利義政よしまさは、酒におぼれて現実逃避、公事を行いません。そこで、たちあがったのが、日野富子とみこというわけです。

たしかに、日野富子とみこは、財源を確保するために、京都の各所に関所を設け、財源に当てました。いらぬ税金をとられているようなものなので、民衆たちは、この施策に不満をもちます。

この頃は、土一揆が当たり前のように起きていた時代ですから、農民の「くらし」は、それは、それは、苦しいものだったと思います。男性は、足軽兵として、戦に駆り出されていましたので、不満の矛先は、必然的に室町将軍家に向けられると思います。

日野富子とみこの政事は、戦乱で苦しむ庶民たちをよそに、利権追及をして高利貸しの立場を徹底的に擁護、天下や社会、民衆の事は二の次だったことは否めません。しかし、それは、家族を守り、室町幕府を、なんとか守るという動機だったのでしょう。

現に、「応仁の乱」を終結させるために、自費で、西軍に1000貫の資金を援助し、分国への帰郷を支援しました。他にも、朝廷の御所修復費用を自ら蓄財で賄ったりと、幕府にお金がなければ対応できないことに、自らの財力をあてたのです。

そう考えると、世界大戦で「領地」ではなく「資源」を勝ち取ったアメリカの資本主義思想に近しい行動に思えます。敗戦前の、日本では、非難されてもやむなしのような気がします。


■上様と呼ばれた女

大内政弘まさひろや畠山義就よしなりら、西軍の諸将軍たちが、京から兵を撤退させて分国に帰ったことで、「応仁の乱」は終息しました。

西軍の将たちは、日野富子とみこのはからいで、撤収費用や所領の安堵を受けます。そのお礼に、西軍大将、大内政弘まさひろが、日野富子とみこを上様と呼び、340貫を贈ったといわれています。

そして、重要なのは、大内政弘まさひろが分国へ引き上げる日にちを、日野富子とみこと相談していたことが判明しています。すなわち、大内政弘まさひろが一番信頼していたのは、日野富子とみこというわけです。

前将軍・足利義政よしまさは、ポンコツで、現将軍の足利義尚よしひさはまだ幼少。日本の世を司っているのは、日野富子とみこだと、大内政弘まさひろはみていたのかもしれません。


■悪女と呼ばれる女

「応仁の乱」終息から12年後、愛息子の足利義尚よしひさが、六角高頼たかより討伐遠征中に亡くなり、翌年には、夫の足利義政よしまさも死んでしまいます。

残された、日野富子とみこは、御台所として、第十代将軍に、足利義視よしみの息子、足利義稙よしたねを擁立します。しかし、足利義稙よしたねの政事は、再び、有力武家のお家騒動の争いを焚きつけるようなものでした。

みかねた、日野富子とみこは、細川政元まさもととともに「明応の政変」を起こし、第十一代将軍に足利義澄よしずみを就任させます。

これが、「応仁の乱」に続く、続・足利騒乱のキッカケ「船岡山合戦」をお越し、戦国期につながっていくわけですから、やはり、日本という国の未来のことまでは、考えてくれていなかったのかもしれません。


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