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【短編小説】残暑

 夏は嫌いだ。

 まずあつい。寒いのも嫌いだが暑いのは耐え難い。肌の上を汗が垂れるあの感覚は、虫が這う感覚の次に嫌悪感を覚える。蟻の行列かのような筋を額に何本も浮かせて、どうして君はそんなにも嬉しそうに笑うのだろう。蒸気機関車の如く肩を上下させ熱気を撒き散らし、終着駅へたどり着いた君はどうしてこんなにあついのだろう。


 夏は嫌いだ。

 兎角うるさい。静かすぎるのは寂しいが五月蝿すぎてもうんざりだ。蝉の鳴き声など雑音と変わらない。私を大樹と見立てたか、四六時中傍らに居ようものなら煩くて閉口だ。日が暮れてやっと落ち着いたと思いきや、静寂を切り裂く花火の音に激しく舞い上がるのだから開いた口が塞がらない。遥か彼方で散るならば、その去り際は、黙って逝くのが美しい……だろう。


 夏は嫌いだ。

 あつくなくても、うるさくなくてもそうなのだ。そうなのだろう。


 夏は嫌いだ。

 夏雲も夏風も夏影も、夏でなくてもそこにあるというのに、夏であるだけでそこに在る気がする。


 夏は嫌いだ。

 忘れたくないことは忘れるのに、忘れたいことはしっかり忘れられない。手のあつさも汗の匂いも怒った声も笑った顔も。熱帯夜と蝉の静けさと空に散る花びらは、毎年毎夜、私に思い出せないことを思い出させる。


 私は、夏が大嫌いだ。


(了)



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