児童書における「ふつうの大人」

児童書エンタメにおける、ごく良識的な、「ふつうの大人の扱い」について書く。

デビュー前、研究のために児童書を読み漁っていたとき、とある作品で、「警察が、主人公たちに、事件の解決をまかせるシーン」があった。
それまでは面白く読んでたんだけど、なんだかそこで、醒めてしまった。
「それ主人公たちがやる必要なくない? 警察の仕事じゃない?」って思ってしまって。
もちろん、「だから主人公たちが動くんじゃなくて、警察が動けばいい!」っていうんでは当然ない。
「警察じゃなくて、主人公たちが事件を解決しなければならない、納得感が必要だよな」って意味だ。

そのときに思ったのは、「なるほど、ふつうの大人を描くのは、児童書エンタメにおいては、あつかいに注意がいるんだな」ということで。
だって、一般的に、良識的でごくフツーの大人っていうのは、子供の冒険を阻害する方向に動くものだろう。現実においては。
もちろん、物語のなかのキャラクターにおいてはそうでなくて良いんだけど、それは読んだときに納得感があるように、世界観の設定やキャラのバックボーン、空気感やリアリティラインの設定などを、しっかり考えた上ではじめて成り立つことだ。
そのへんきちんと意図をしないまま、良識的なごくフツーの大人に、(ストーリー展開の必要上から)子供にキケンな冒険を推させるように描いてしまうっていうのは、物語の説得力を欠けさせるな、と自分のなかに刻んだ記憶がある。

なので、僕は絶望鬼ごっこでも、そのへん結構気をつけてきたつもりである。
「子供の世界」と「大人の世界」のあいだにラインを引いて、大人の論理が子供たちの世界へ侵食してこないように、注意を払ってきた。
(ちなみにラノベやマンガの常套手段としては、「親を海外赴任させちゃう」とかなんだけど、親子の絆をテーマにしてるのでそこはしなかった)

ただ、絶望鬼ごっこも第二部に入って、お話のスケールを広げていったときに、「いつか大人たちが気づかないとヘンだよな」、「どこかで必ず、子供たちの冒険の世界と、大人たちの常識の世界を、混ぜあわせなければならない時がやってくるよな」と思うようになって。
その時がきたらもう後戻りできないし、ノンストップで全部の手札を晒していこうと。水と油を混ぜあわせたときに、物語が硬直しないように。
そう思いつつ段階を踏んでいって、20巻でいよいよ、じゃあ、おっぱじめるか、となったんだけど。

最新23巻では、ようやくそこの、着地点を描いてみたつもりだったりする。
子供たちの冒険の世界と、大人たちの常識の世界が混ざりあったときに、どちらがどちらに呑まれることなく存在していてほしいなと。
…まぁ、読者の楽しむメインポイントではまったくないので、あまり力点は置かないように注意してるけども。

そんなわけで、絶望鬼ごっこ23巻、『絶望鬼ごっこ 鬼もおののく地獄列島』が2/22に発売になります!
クライマックス目前の、モンスターパニック群像劇です! よろしく!


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