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椿昇さんにお話を伺いました。

椿昇

1953年京都市生まれ。京都市立芸術大学美術専攻科修了。京都芸術大学美術工芸学科・大学院教授。1989年のアゲインストネーチャーに「Fresh gasoline」を出品、展覧会のタイトルを生み、その後の日本のコンテンポラリーアートの方向性に多大な影響をもたらした。1993年のベネチア・ビエンナーレに出品。2001年の横浜トリエンナーレでは、巨大なバッタのバルーン《インセクト・ワールド−飛蝗(バッタ)》を発表。2003年水戸芸術館、2009年京都国立近代美術館、2012年霧島アートの森にて個展。一貫してユーモアあふれる巨大な玩具を主にバルーンを用い、現代社会の抱える危機的な状況への警告を内包させている。

また、地域再生のアートプロジェクトのディレクターも努め、瀬戸内国際芸術祭では、201年「醤+坂手プロジェクト」、2016年「小豆島未来プロジェクト」のディレクターとして大きな経済的成功をもたらした。2017年よりAOMORI トリエンナーレディレクター。長年にわたってアート教育にも携わり、京都造形芸術大学美術工芸学科の卒展をアートフェア化、内需マーケット育成のためにアルトテックを創設。2018年よりARTISTS’ FAIR KYOTOのディレクターを務め、アートを持続可能社会実現のイノベーションツールと位置づけている。

アーティストフェア京都2023

この記事は椿昇という人物にインタビューを行ったものだ。その内容に入る前に、今までどんなことをしてきた人なのか、表面をなぞるような形になるが皆さんと一緒におさらいしておきたい。

まず、椿昇は「ARTOTHÈQUE(アルトテック)」のディレクターだ。ARTOTHÈQUEとは、フランス語で「アートライブラリ=芸術図書館」の意味であり、京都を中心に活動する若手作家の中で、卓越したアーティストのアーカイブをする。また、それと同時に作品を行政や企業、個人への販売やコーディネート、コミッションワークの提案、アートフェア・企画展の運営、設置空間のアートディレクションなど幅広く活動を行なっている。京都芸術大学内に会員制のコマーシャルギャラリーとして場所を構えており、定期的に展覧会を開催・作品販売を行っている。

それに付随して「ARTISTS’ FAIR KYOTO」のディレクターも務めている。「ARTISTS’ FAIR KYOTO」は、アーティストが企画から出品まで自ら行うという、これまでの枠組みを超えたアートフェアとして2018年に誕生したものだ。重要文化財のホールや企業ビル等をエキセントリックな空間に設え、会場はアーティストと来場者のコミュニケーションが生み出す熱気で満たされる。

ARTISTS' FAIR KYOTO

その他にも、京都芸術大学の美術工芸学科に「基礎美術コース」を立ち上げ、そのコースの教授を受け持っている。基礎美術コースは、室町時代の京都を中心に確立した「茶の湯」「能楽」「いけばな」「水墨画」など、日本におけるアートの基礎である「日本文化」を、知識と実践の両面から学ぶコースである。このような試みは、全国の他の美術系大学にはなく、各分野の第一人者が揃う京都にある大学だからこそできるものだ。実際に私はこのコースに通い、椿昇のゼミ生として活動している。

美術工芸学科の学科長だった頃には、卒業制作展を前代未聞のアートフェア化し、今では会期中に一日500万円ほどの売り上げが叩き出されるまでになった。椿昇の「アートで食えるようにしてやりたい」は、若者や未来に向けての愛情と熱意ある口癖である。

卒業制作展講評の様子/写真は京都芸術大学より拝借

自身も一人のアーティストであるから、これまで作ってこられた数々のシステムも作品そのものだと捉えていらっしゃるのだと思う。2001年には横浜トリエンナーレで巨大なバッタを街中に出現させている。その作品から見て分かるように椿昇という男のスケールはとても大きい。とても大きいが、それらをしなやかに実行していくさまは見ていて美しい。見た目のインパクトの中に何を内蔵させているのだろうか。

Insect World / 2001
Fragmenta / 2013

こんなにもクリエイティブなことをしているのに、大学で受け持つ授業は比較的少なめで学生からは少し距離のある人だ(無論、実際関わると面白い近所のおっちゃんみたいな人である)。そのため、4年間大学に通いつめたわりには接点が少なかったように感じる。ゼミ選択の時期に私が椿ゼミを選んだのも「ゼミ生が少ない方が俺は楽や」と言うおっちゃんを逃しはしまいという意思からだった。

目まぐるしくデータや価値観が更新されていく時代の芸術大学に、足袋を履かせて能を舞いらせたり、竹林から竹を採って来させて花をいけさせたり、冬に禅寺で合宿をさせるようなコースを作った人だ。幾多の現場を経験してこられた中で、なぜ今このようなシステムを生み出すに至ったのか、何を考えながら日々生きておられるのか、インタビューと称して頭の中を覗いてみたいと思った。

会話の流れの中で率直に答えていただいたから、椿昇という人物像がより等身大で見えてくるんじゃないかと思う。質問の内容は人間にとって普遍的なものについてだ。

それではインタビューの内容に入っていきたい。
椿昇がいる宇宙空間までテイクオフです。


I   何者でもない

Moon Walker / 2009

椿昇とは何者ですか?

何者でもない。英語でいうとMr.ノーバディ。そういうB級映画が昔あって、それを観て「おお、ええな」と思ったことがある。何者でもないということはすごく重要やね。音楽家のブライアン・イーノは、自己紹介をするときに父親とか浮気者とか90種類ぐらいの肩書きを使うらしい。日常にある生活習慣の中でアイデンティティは誰しも一つじゃないから、アイデンティティを一つにしようとするプレッシャーはアートには一番必要ないかなと僕は思う。

アイデンティティや肩書きは、自分自身で決めるものではない?

うーん、というよりも自分で決める必要がない。こうやってホモ・サピエンスが集団で暮らしている限り他者がそれを決定するからね。村の中で「俺が王様になりたい」と言っても『裸の王様』になってしまうやろ。だから皆勘違いしているのは、自分が決めなあかんと思い込みすぎかな。アイデンティティや肩書きは、誰かが決めたり時代が決めたりするから自分で決定する必要はないと思う。

でも、アーティストとして活動していくか、企業に勤めるかなど自分自身で人生を決定しているとも言えませんか?

自分で決めているようで、それも友達の女の子が「あんたアーティスト向いてるんちゃうか」という一言で決心がつくような、周囲によって決められていくものだと思う。周りからのおすすめにも色々な意見があるけど、その中から「これがいい」と自分で決めているのは最後の最後かな。自分の責任で最後は決めるけど、そこに至るまでは色々な人が意見やアイデアを出してくれて「いいですね。それでいこう」と決心が着くみたいな。自分から提案することもないし、自分から何かをしたいということもない。ほとんど全て、周りが期待することに応えているだけやな。だから周りのおすすめというのは非常に重要だと思う。

こうやってインタビューを受けてくださっているのもそうですよね。そのように感じられるようになったのはいつ頃からでしたか?

物心ついたときからスーパー受け身だった。スーパー受け身というよりも、頼まれた事をただやってきただけ。町の便利屋さんみたいなものやな。これは嫌味な言い方やけど、仕事ができない人にはものを頼まへんやん。だから多く仕事を頼まれている僕はできる人間だということや。家庭の中で「レンゲを取ってきて」と頼まれたら嫌がらずに取ってきたように、頼まれたことを面倒くさがらずに僕はめっちゃ気軽に引き受けてきた。周りのお願いやおすすめを聞いて、一つずつこなしていくことが大切。そもそもの話だけど、何かを言われて面倒くさいと思う人に僕は全く興味がない。何事も面倒くさいと思ってしまう人はいるだろうけど、そういう人はそういう友達同士で付き合えばいいと思ってしまうから、ハッキリ言って僕は自己中やんな。

Fresh Gasolin / 1989

アートとは何ですか?

僕にとってのアートと、皆にとってのアートは100人聞いたら100人とも多分違うものだと思う。僕にとってのアートは自由になるための道具やな。こんな国の中で自分のやりたいように生きていくには、アートが一番いいかなと思っている。最初は弁護士になろうと思っていたことがあるくらい法律の道に進もうとしていたけど、人の役に立つことをやるのは僕は無理だと自然に思うようになっていった。だから、周りに迷惑を掛けないように自分が好きに楽しく生きていきていくためにアートをしている。

椿先生にとってのアートは、どこまでの範囲を呼ぶのでしょうか?

それは何者であるかと同じように、僕が決めることではなくて一人一人が決めることやな。自分の中でそれが決まっていなくても、周りに宣言して他者が認めたらアーティストになれる。どれだけ自分が宣言しても皆に変人やなと思われたらアーティストになれへんやん。その相互関係の中で、自分が設計した自由が実現できる方法論の一つにアートがある。僕は身寄りのないアーティストで、みなしごハッチみたいな感じの存在だと思ってる。それはどういうことかというと、ギャラリーにもアート団体にも所属していないということ。だからといって一匹狼でもなく、色々なギャラリストさんと仲良しでいる。

所属しないのは自由になりたいからですか?

もちろん自由になりたいのもあるけど、周りに迷惑を掛けるなと思うのね。というのは、ギャラリーは商売で作品を売らなあかん。でも、僕は売れるものを作らずに自分が作りたいものを作れたらいいと考える作家やから、商売が成り立たずにギャラリーに迷惑を掛けてしまう。コレクターからの「こんなん作ってほしい」という要望にも叶えられないし、突然違うことやり始めるし、ほとんどの人にとって僕は好きにやっているからそっとしとこうみたいな感じだと思う。この状態が僕にとって一番ストレスがない。他人に迷惑を掛けないために、そういう世界にいないということ。

Guangzhou Academy of Fine Art 2018

椿先生は所属をされないということですが、コミュニティやシステムをよく作られている印象があります。アルトテックもそうだし、アーティストフェア京都や基礎美術コースもそうだと思います。それらはどういった感覚で作られているのでしょうか?

多分OSを書いているのと同じ感覚で作っているのだと思う。どちらかというとSIMCITYのようなゲームの方が近いのかもしれない。SIMCITYやSimAntのリアル版を作っていて、その制度設計が僕は好きやねん。

プレイヤーとしてではなく、世界やシステムを作ることに惹かれるということですかね。それは何でですか?

そうそう、システムを作るのが大好き。なぜかは分からないけど、多分本質的に物を作ることよりも仕組みを作ることの方が好きなんだと思う。小さい頃からそうだったと思うよ。完全に循環する世界を作るのが好きで、全くエネルギーのロスがなく永久機関のように仕組みを回すのが僕にとってのビューティフル。

日本でいえば平安時代から続く池泉回遊型(ちせんかいゆうがた)というお池を想像してもらったら分かりやすいと思う。皆そこに理想郷を求めていたわけだけど、それと同じように僕なりの理想郷があって、それは全てのシステムが無駄なく動くというもの。仕事をもらったときは、まず自分1人でどうやったらうまく循環させることができるか考える。僕のネットワークには友達がたくさんいるから、「じゃあ誰々君はここに、誰々君はここに、あ、ここに1個ドラゴンボールが欠けてるなぁ」とか考えるのが僕のエクスタシー。僕にとってシステムを作ることは作品そのものやねん。アーティストフェア京都も、ウルトラプロジェクトも、マンデープロジェクトもお庭を作る庭師に近い感覚で作っている。

《Daisy Bell》(2014)撮影:Kenryou Gu

椿先生にとってシステムを作るということは作品を作っているのと同じということですが、巨大なバルーン作品の制作などはどういった位置付けにあるのでしょうか?

バルーン作品も自分の楽園を作るために必要だから作っているだけやね。ヒエロニムス・ボスの絵画のようなシュールでキッチュな訳の分からないお庭を僕は想像していて「丘の上にはこいつがいて、谷のあたりにはこいつがいる」をリアルでやるために、誰かにお願いするとお金が掛かるから自分で作っている。欲しいものは僕が全部作る。

自分が一番最初に椿先生の作品を見たのが兵庫県立美術館の手前にあるオブジェのようなもので、それが何なのかが分からず「変なやつやな」と思わず言ってしまったことを思い出します。

そう、基本的に変なやつを作ってる。結局幼稚園の幼児が砂場で何かを作っているみたいなものの延長線上にあるね。僕はあんまり物にはこだわりがないねん。普通のアーティストは物を作ることが好きだと思うけど、僕は物に興味はなくて仕組みに興味がある。だから作る物はバルーンでもCGでも何でもいい。根本的に物フェチじゃないねん。世界を構築する楽しさが大好き。

そうなると、椿先生にとっては教育もシステムを作っていることになりそうですね。日本の教育の問題点を挙げるとしたら、どういったところにあると思われますか?

教育は完全にシステムやね。システムが悪いとどんな良い人もレベルが上がらないし、システムが良ければどんな人たちもどんどん良くなっていく。日本の教育は、まず空間が良くない。空間が前と後、前後になっている。スタンフォードや西海岸に行ったら、先生が前にいて生徒が後ろで聞くという形式ではないねん。ソファーの下にキャスターが付いていたり、ホワイトボードが置いてあって、適当にソファーごと場所を動かしながら「おい皆、次のミッションこれについて話そうぜ」といって問題解決をする。皆で話し合いながら、具体的に問題解決する方法を考えるということ。日本はそうではなくて、前から言われることを一方的に聞いているか、やたら批判するだけやねん。だから、僕らのチームは「NO」というのは一切禁じられていて「Yes and ...」しか言ったら駄目。「Yes すごくいいアイデアですね」と言って「And これを加えればもっと良くなるんじゃない?」という提案の仕方はビジョンを持っている人しかできないから、それができない人はチームに存在することができない。自分の体験を活かしながら、その問題に対してどういう貢献ができるか話し合うために会議があるねん。日本の教育が生み出した「そうじゃないんじゃない?」という批判は誰でも言える訳で「そうじゃないのが分かっているけど、これを加えたら何とかなるんじゃない?」と提案できるのが会議だよね。

CONTACT-10

では、椿先生にとって、その教育のあり方は壊したいもの?

いや、全然壊す気もない。「勝手にやってて」という感じ。自分の世界ではそういうルールでやるけど、他の人のところまでは制覇したくない。しんどくなるでしょう。ハッキリ言ってしまえば、冷たいようだけど関わりたくない。政治もそうだけど、みんな選挙に行ってより日本が良くなったらいいと思うし僕も選挙には行くけど、だからといってすぐに何かが変わることは期待していない。だからといってそういうことをやってくれと言われてもやらない。でも、アートの中だったら目の前を変えることができる。

なぜアートはそれができるんですか?

リアルじゃないから。僕はリアルがあまり好きではなくて、フィクションが大好きやねん。リアルは重たいけどフィクションは軽いわけや。脳の中で考えるフィクションの世界の中に僕は幸福を見出している。ひどい話やけど、リアルは別にどうでもいいねん。こういう生き方はアーティストだから許される。政治家や議員がそんなこと言ったら許されへんやん。


Ⅱ  650年

Google Impressionism_03 Acrylic on canvas H970mm x W1455mm 2019

椿先生にとって伝統文化とは何ですか?

室町時代に生まれた茶の湯や能楽といった日本の伝統文化は、650年経っても世界で一流の美的な洗練度を保ち続けているという事実に僕はすごいものがあると思うねん。そんなにすごいものは世界に例がないからやねん。それだけのものを生み出し、検証し、繋ぐことができる民族が、なぜこれだけお給料が上がり続けないのかというと、やっぱりこれもシステムに問題があると思う。裏千家やお能の人たちは、色々ある大変なことをクリアにしながら文化を維持している訳だから、それができる力はあると思うんだけどな。

伝統文化と呼ばれているものには、循環したシステムがそこに確立されている。

そして、以前のままではなく更新され続けていくんや。更新できずに滅びていく業界もある。臨済宗においても一時は消え去りそうになりながら、


白隠というスーパースターが現れて復興するということがあったよね。清水寺もそうで、一時は全ての屋根が落ちるくらいの廃寺みたいになっていたのに、先代さんらの努力によって建て直された。クリエイティビティが一般化されていない日本という国は、個人のビジョンによって組織がもう一度息を吹き返すということも多くあって「神風が吹くんちゃうか」みたいな特殊な人を待つという待ちの姿勢がある。そこのところがネックになって更新できずにいるところがあるから、スーパースターになれるチャンスが一人ひとりにあることをみんな気付いてほしいと思う。

新しいことを取り入れる重要性は、世阿弥の「花」にも通じますよね。

新しいことをどんどん取り入れつつ、その伝統を崩さない。古いものこそ宝が詰まっていると思います。

2018 GFOsaka

縄文時代においても日本人のルーツがあるように感じられます。

縄文時代は4000年ぐらい世界最高の繁栄を築いたわけだけど、その中でも日本は端っこの島国で吹き溜まりなわけよ。後発の強い民族に追い払われた世界中の先住民族が日本に集まってきたから、ゲノムも4種類ぐらい日本人には混ざっているらしい。そういう意味でも、多種多様な人類が持っているリソースはここの国にもあると思う。そういうものが発酵して日本文化という独特なものが生まれたわけだけど、第二次世界大戦や高度経済成長を経てからあまりにも放置しすぎたんや。多様な要素が混じり合ったことでプラスに働いた部分が多くあったから、ついついそれに依存してしまいマイナスに働き始めている。日本人は勤勉に働くし一生懸命やるけど、その性質に依存して一生懸命物作りさえしていたらいいと考える守りの姿勢に入ってしまった。

だから、それと同時に攻めもしやなあかん。守備はパターンを教えこんで真面目にやってさえいれば誰でもできるけど、攻めはビジョンや戦略が必要になってくる。からっきし人任せにしていた人たちにはできないことなんや。インターネットができてから世界は完全に農耕ではなく狩猟採集時代になった。自分から攻めて獲物を取りに行く必要が出てきたけど、言われたことをコツコツこなして完璧な製品を作る文化で勝利した日本人のメンタリティは、狩猟採集時代に全く適応できなくなった。会社のトップから下々のみんなまで新しい製品を開発できないから、既存の液晶テレビに機能を付け加えるようなことをする。「もう液晶要らんやん」とか考えられへんわけや。

21st CENTURY MUSEUM OF CONTEMPORARY ART, KANAZAWA

椿先生は攻めの人ですよね。

うん、庭園を設計するという時点でオフェンスなんだよね。だってビジョンを持って構築していくわけだから「誰かやってね」ではできなくて、自分一人で作り始める必要がある。すると

自分で考えて自分で行動するようなるし、それに対して自分が責任を負うから厳密にいえば攻めているわけではないねん。自分で自立しているだけの話やねん。自立することぐらい本来皆できるはずなのに教育の中で従っていればいいと思うようになったから、みんな自立できなくなった。僕がワークショップをすることがあるのは、間違った教育によって抑え込まれた自発性や自立性を引き出すためやねん。これからは皆が自己責任で自分で考え行動する組織にしていかなあかん。指示を待っていれば何とかなると考えているのはすごい危険。呆れる国が何か世話をしてくれるわけでもないし、年金とか当てにしててもあかん。だからな、全員小学校の頃から崩壊寸前の暗号資産を必ず千円ずつ買うようなことをやるべきや。暗号資産を持っていると、世界がどれだけ激変してるかがすぐに分かる。そういうものに日々触れるのか、お給料が振り込まれて漫然と働くのかでは人生が変わるからね。自分でクリエイティブに、創造的に生きていかないとあかんと思う。

KUA MONDAY PROJECT

人間というのは、クリエイティビティが備わっている生き物?

そう、それが自由ということやねん。自由はわがままできるということではなくてクリエイティビティを取り戻すということ。それは人間の当然の権利な訳で、自由の権利というのはクリエイティビティのことをいう。高速道路でオシッコを入れたペットボトルを窓から捨てていいという話ではない。完全に間違った自由を教育が教えているから、僕は自由になるための本当のクリエイティビティをみんなと一緒に育てていきたい。

それでいえば、アートは最もクリエイティブなものですよね。

そうそう、だからアートというのは人間にとって最も根源的なものであり権利だと思っている。憲法9条の話ではなく、アーティスティックに考えられる権利を一人一人が取り返せという話やねん。

それでもアートは何か特別な才能のある人が嗜むものというような、どこか切り分けて考えられる方もおられる気がします。

それは美術館の学芸員や日展を企画している人たちのプロパガンタというものや。僕はアーティストという仕事は普遍的職業であって、特別な技能はいらないものだと考えている。農業とほぼ同じで朝から晩まで土を掘っていればいいし、特殊な技能や知識、教養といったものもいらない。遠い星を見て何かを思うことができたら誰でもできるわけ。

アートが誰しも普遍的に持っているものであって、誰もがアーティストであるとして、それでも職業としてアーティストと呼ばれている方たちがいますよね。アートがお金となって生活できている人たちは、そうでない人たちと比べて何が違うんですか?

それはアートに限らずどんな業界でもそういう世界はあるやんか。みんなが欲しいものを作れば儲かって、みんなが欲しいものを作らなかったら儲からない。でも、皆が美味しいと思うものを作りたくない僕みたいなやつだったら儲からなくてもいいわけや。アートは自由に生きるための方法論の一つであって、これを残してくれた人類に感謝したい。行政と仕事をするにしても大学の先生だったら絶対いじめられるけど、アーティストだからいじめられない。完全に僕は別枠やから、ぼーっと空を見ていても許してもらえるし良い仕事だと思う。僕は自分の選んだこの仕事が最高だと思う。

KUA ULTRA PROJECT

Ⅲ  宇宙人に噛まれても許せるか

愛とは何ですか?

愛とは何かな、寛容のことかな。難しいけど相手を許すことだと思う。イエスのように許しを与えること。保護犬を買おうとしたときに、突然僕のところに向かってきてガバッと噛まれたことがあるけど、そういったときに許せるかどうかだと思う。噛まれたことに対して怒りを持って何かをするのか、それともそいつにも事情があると思えるのか。辛い虐待を受けてきて、いきなり誰か分からない僕の家に連れて来られたんやからワンちゃんも怖いわ。僕の身体には噛まれ傷がいくつもあるよ。

どうやったら寛容になれると思いますか?

アートのような楽しいことがあって、余裕があれば寛容になれるよな。色々窮屈で辛いことがあったら人は許せなくなる。イエスみたいなレベルになるのは大変だけどね。

可愛い。

椿先生に愛はありますか?

時と場合によりけり、ケースバイケースや。おっさんが噛んできたら僕は絶対怒ってるけど、保護犬のワンちゃんだったら許しているみたいな。まぁ、人間の身勝手なもんやな。

結婚はそれこそ密接な関係になりますよね。許せないときも出てきそう。

結婚するときは、違う宇宙から来た二人だという前提から始めた方がいいと思う。お互い相互理解ができない生き物だけど、どうやって相手を許し合えるか。ムカついたらすぐ離婚になるやん。だから、根本的に自分のわがままを通そうと思ったら結婚は絶対無理や。アイデンティティが強くなってきて自己実現を優先し始めたら結婚は上手くいかない。

でも、僕の息子二人とも結婚しないんだけど、自分で自分がやりたいことがあって好きに生きたいんだったら結婚する必要はないと思う。どんどん社会はそっちへ向かっているよね。自己中心で生きられなくなったら結婚は増えるんじゃないかな。よく分からないけど、例えば大災害に襲われて一人で生きられなくなったりしない限り、今みたいにある程度一人でも快適だったらみんな結婚しなくなる。

もしかしたらそれで問題もあるかもしれないけど、別にいいんちゃう。だって他の国では人口増えていたりするわけやん。増えるところで増えて、減るところでは減ったらいいと思う。むしろ人類全体ではもっと減らなあかんわけだし。だから、わりと小さい国に日本はなるだろうな。みんな何も気が付かないうちにその流れに合わせて変化しているんだと思う。それでもどうしようもないところまでいったら、変な話やけど、源頼朝のようなエグいやつが出てきて何とかなるんだろうな。そんな時代には生きていたくないけど。

可愛い。

Ⅳ ほっといてアメンボ美学

お金とは何ですか?

お金は最低限あれば良いな。お布施や喜捨のような、誰かがお金をくれてありがたいなと思うようなもの。それともう一つ、最近は見えないものが面白いなと思う、NFTとかね。歴史的に今一番面白い時代でさ、ビットコインイーサリアムも消滅するような時代だよね。減るとかのレベルではなくて100万円ぐらい持っていたのが10万円ぐらいになる。そういった面白いものがあるわけで、それもある種のお金といえなくもない。だから形がない時代にどう備えられるかが大事だと思う。

Space Art Festival 2017

椿先生はどう備えていこうと思われてますか?

僕は備えるというよりかは鴨長明みたいなものだから「川の流れは絶えずして」と歌うように、川に1,000万円やイーサリアムとかビットコインが流れていくのをただ眺めているだけ。そのうち寝て起きたら巨大な桃が流れてくるかもしれないので、人生とはそういうものだとある程度理解しておいた方がいいと思う。普通に預金して増やしてとか、安心安全みたいなことを願う時点で終わりだと思うね。イーサリアムを持って世の中は揺れているということを覚えておいたらいいねん。それを過保護にするから駄目になってしまう。

今はもう過保護ですか。

今はもう超過保護や。おせっかいをされると人間の生命力は確実に落ちる。過保護をやめることで怪我をしたり、もしかしたら命を落とす子供も出てくるかもしれないけど、一人死んでしまったからといって川に全部柵を取り付けて絶対に近寄れなくするようなことをしていると、もともと人間に備わっていた判断する力がどんどん失われていくわけや。僕の子供の頃は、台風の後に淀川の河原に行って電線にぶら下がっていたら感電して、皆バチバチとなったけどよう生きていたなと思ったことがあった。危険が周りにあったわけよ、僕らの時代はさ。川に落ちて死んだ子もいたけどニュースにもならなかった。だから何と言うのかな、やっぱり今は時代の中でたくましさを身に付けていかないと身体性などが欠落してしまうと思う。

K-Arts Guangju 2017

椿先生にとって成功とは何ですか?

僕にとって成功というのは、とにかくほっておいてもらうことやな。今も結構みんなそっとしといてくれるから、それで充分。

混沌から逃れたいみたいなものが根本的に強くあるんですかね?

混沌というよりも僕は制度から逃れたい。自分のシステムはいいけど、人が作った制度の中に入れられるのは嫌なんや。だから、単にわがままというだけなんやけど、太公望が望んだような世界がいいと思っている。山と山のはるか竹林の人里の離れた都から遠いところに住んでいて、魚のいないところに釣り糸を垂らしたりしていた人。それが僕にとって理想のほっといてという世界で、それが東洋画の神髄やな。

家ではギリシャのソフォクレスやゲーテと対話していたり、本を通して過去の死人とよく会話をしている。今日はゲーテにうるさく言われたくないとか、今日はお前とは会いたくないというときには自分勝手に本を閉じて喋ることをやめられるし、話したときには結構いい時間が過ごせる。それに、本を読んだらその世界へ旅することができるよね。表紙を眺めてぼーっとしては、ぱらぱら眺めてコーヒーを飲んで、また別の場所に行くことができる。自分の頭の中のフィクションの世界をふらふらしているときに、学長から電話がかかってきたら我に返ってタスクをこなして、またどこか違う世界に行く。基本的に放浪していたい。

椿先生にとって幸福とは何ですか?

あらゆる責任から解除されて宙づりになっている状態。

仏教的にいえば離脱するみたいな感じですか?

そういうのが近いかもしれへんな。でも離脱しようという欲を持たないままに宙に浮いている状態がいい状態。欲を持ったり修行をしようとか、悟りを得ようということ自体が僕は間違っていると思う。それは何かを目的にしているのでしょう。目的を持った瞬間に禅ではないねん。無目的で宙づりになっている瞬間が一番エクスタシーやねん。その状態でいるときに君らに「先生!」と声を掛けられてハッとして「なんや、なんや」となるのがいいねん。それが僕にとっての幸福。幸福は昼下がりにぼーっと釣り糸を垂らしていて、その横を鴨が泳いでいくみたいなものや。

幸福は大きいものではなくてちっちゃいもの?

ちっちゃいものやな。あめんぼがぴゅっと行ったりとか。

Guangzhou Academy of Fine Art 2018

死とは何ですか?

この質問が一番難しくて、答えは死ぬときにしか分からない。でも、全身麻酔を打ったときにこういった感じなのかなと想像はついた。高須クリニックの高須さんは、ガンを何個も切っていて今までで全身麻酔を5回くらいしていたと思うのだけど「僕は死は全然怖くないんだよ。臨死体験を5回もしてきたから」と言われた。寝るということも気付かないうちに寝るんや。だから、それに至るための苦しみとかそういうことはなくて、俺にとっての死は「はい、さようなら」という感じ。多分死ぬときはそうやって死ぬと思う。

怖くないですか?

怖くない。多分一瞬でポンと亡くなるねん。

ピストルを持った人が来たらどうしますか?

ピストルを持った人が来たら、それはもうちゃんとここ(脳天)を打ってくれと思う。難しくないよ、好きに生きてきたから。

最後の質問ですね、普通とは何ですか?

今の状態やな。次の打ち合わせがあるから、ごめんやけどそろそろ行かなあかんわ。

大変ですね。

シャバや。


いかがだったでしょうか。これにて椿先生へのインタビューは幕を閉じます。まだまだ読み足りないという方には、椿先生著書「シェルターからコックピットへ 飛び立つスキマの設計学」という本を勧めたい。ここにはオリジナリティ溢れる創造的に生きるための方法が書かれている。

ここまで読んでいただきありがとうございました。また何かの機会で。

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