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テツガクの小部屋14 ソクラテス③

ソクラテスの方法は対話(ディアロゴス)である。これはロゴスが二つに割れることを意味する。二つに割れたロゴスが対立しながら次第に高め合っていき、最終的にものの定義にいたらんとする方法である。

彼は以下のような方法をとる。まず彼自身は無知を装い、相手に定義を与えさせる。そしてその定義を一応受け入れ、それを仮設とし、そこからさらに問い進めていく。例えば「正義とは何か」とソクラテスが問い、相手が「正義とは借りた物を返すことである」と答えたとする。ソクラテスはこの定義を一応受け入れ、そのうえで「では借りた恨みを返すことも正義だろうか」と問い返す。すると相手は返答に窮し、それが正義の一事例でしかなく、正義そのものではないことを認めざるを得なくなる。このように無知を装いながら相手に知識を披露させ、それが臆見(ドクサ)でしかないことを指摘することによって相手に無知を自覚させる方法を「ソクラテスのイロニー」という。

ソクラテスは個々の具体的な事例を検討することによって普遍的な概念規定(定義)を獲得する方法を常套としている。アリストテレスは帰納法と普遍的定義術の創始をソクラテスに帰している。

ところで例えば「善とは何か」と問われた場合、ある人はそれを快であるといい、他の人は思慮であるというかもしれないが、それらが善の満足すべき定義でないことは明らかである。よき快もあれば悪しき快もあり、よき思慮もあれば悪しき思慮もあるからである。したがって善を定義するには、諸々の「善いもの」ではなく、善それ自体が求められなければならない。ソクラテスの定義術はそれゆえ暗黙のうちに、善それ自体、正義それ自体、美それ自体の存在を前提とし、それらを予想しているのである。

ソクラテスはまず臆見(ドクサ)をもって知識(エピステーメ―)とみなしている謬見を破壊しなければならなかった。無知の知こそ哲学の第一歩であるとしたゆえんである。美しい物の知はいまだ美それ自体の知ではないと悟った者にして、はじめて知識への愛求が起こるのである。美しい物を知るだけでは美の臆見を持つにすぎないことを洞察し、美それ自体に対するあこがれを抱くにいたった者が愛知者(哲学者)である。

善それ自体、正義それ自体、美それ自体への愛求をソクラテスはエロスの行為として捉えた。美しい者への思慕は美しい者を通しての永遠の美それ自体へのあこがれに他ならないという。真理への憧憬である愛知(哲学)もまたエロスの行為である。

ソクラテスは真・善・美の絶対性、客観性を主張する。ここから「知って不正をなす者は、知らずに不正をなす者よりよい」という反語ともみえる彼の言葉も理解されよう。善を知る者が善行を行うことは容易であるが、善を知らぬ者が善行を行うことは不可能だからである。そもそもソクラテスによれば、善それ自体を知る者が不正を行うなどということは考えられないことなのである。善即幸福であることに彼は何の疑いも持たなかった。

ギリシャ人の通念によれば、すべてのものがそれぞれ固有の卓越性(徳。アレテ—)を有するが、ソクラテスは魂の徳(アレテ—)を「知る」という機能の中にみた。「よく生きる」とは最もよく知識活動する生き方以外のものではないのであって、それがまた道徳的に有徳であることも意味している。彼によれば、善であるには善そのものを知りさえすれば済むことだからである。ソクラテスの哲学が主知主義といわれるゆえんである。

参考文献『西洋哲学史―理性の運命と可能性―』岡崎文明ほか 昭和堂

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棒線より下は私の気まぐれなコメントや、用語解説などです
 ↓(不定期)

さすがにソクラテスの思想ともなると、だいぶ端折ってもこのボリュームである。ただ彼は書物を残していないのでこのへんで済んだが、プラトンあたりになると結構な分量が予測される。
キーワードは「~それ自体」。「~そのもの」とも訳すことができる。定義すること。帰納法。個から普遍へ。
普遍を求める方法には、いきなり普遍へと至る方法と、個を突き詰めて普遍を見出す方法がある。もっともソクラテスの普遍的定義術とは少し異なるが、個を突き詰めて普遍を見出す方法については、またどこかで書く機会があると思う(このシリーズにおいてでではないかもしれない)。
彼はとにかく文献を残していないので、プラトンから察するしかない。これはかなり厳しいことだ。ソクラテス研究者にとってもそうだが、プラトン研究者(ずっと前の私)にとっても危険をもたらす。そのため、あまり込み入ったことは言えない。プラトンの項で色々個人的な考えが書けるだろうと思う。


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