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心理学と現象学について~心理学批判その2~

前回は心理学と法律学の共通点について述べた。今回は『精神分析入門』のメモの中の一つ、現象学とのかかわりについて述べよう。

前回「現象学の始まりが記述的心理学であったのはうなずける」と書いたが、記述的心理学とは、フッサール初期において、あくまで直観にとどまって、そこに与えられるがままの心的諸体験という事象そのものを純粋に記述していこうとする「理論の前段階」としての「純粋記述」であった。

だが中期において、無前提的であるべき現象学は自我の心理的作用の純粋記述として、なおも「心理学的統覚」を「前提」していることになることに気づき、これを遮断すべきことを明言して、現象学は記述的心理学ではない、と断言した。そして心理学的統覚も含めたすべての超越化的統覚の遮断を、現象学の方法として提示するようになる。これがかの有名な「現象学的還元」である。

他方で私が心理学に信用を置いていない理由は、フッサールの心理学へ対する不安と通じたものがある。すなわち、心理学は、我々の心理現象、例えば思考作用をも一つの経験的な事実とみて、帰納的にその因果法則を求めていく。しかしその帰納がどれほど積み重ねられても、それは結局は経験的な普遍化にほかならず、そこに得られる法則は蓋然的なものでしかないのだ。

このような経験的蓋然性から、例えば矛盾律のような論理法則の必然性がいかに生じうるか。「Aは非Aではない」といった論理法則のもつ必然性は帰納によって経験的に確認されるものではなく、ア・プリオリな明証をともなって洞察されるものだ。したがって、こうした論理法則にしたがう思考内容の必然的統一性を、思考作用という実在的な心理的連関から導き出すことはできないのである。

ともあれ、フッサールに始まった現象学は、ハイデガー、サルトル、メルロ・ポンティと続いてもなお、問題を残しているが、まだまだ生きた学問(哲学)だと私は思っている。他方で、人が心理学に興味を覚えるのは理解できるが、数学の精緻を目標とする哲学からみれば、心理学は「蓋然性の寄せ集め」としか、思えないのである。

たまたま読んだフロイトと裁判官の誤判についての本から、色んな問題に発展してしまったが、思わぬ収穫(私にとっては復習?)となった。プラトンはギリシャ語ができるから専門にしていた部分も実はあり、ドイツ語で大学院を受けなおして、最後は現象学を専門にしたかったという後悔もあるのだ。

といってこれからドイツ語を学んで新たに現象学を学ぶ勇気もないので、今後の若き哲学者に大いに期待を寄せているところである(情けないオチだが、本音である)。




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