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第314回、映画ドラえもん のび太と空の理想郷にみる、ユートピア論


この間、テレビで「のび太と空の理想郷」を放送していたので、初めてみたのですが、ネットでは、以前からお説教くさいとか、気持ち悪い等といった否定的な意見が多く見られたので、気になっていた作品ではありました。

自分自身が見て思ったのは、よくも悪くも、ユートピア系作品でよくある、典型的なテンプレート作品だなと。

理想郷=洗脳=間違えている=滅ぼしちゃえ。


という図式が、何の迷いもなく描かれているのです。
ユートピア系の作品は、昔から様々な作品で描かれて来た、SFの最も普遍的なテーマであり、確かに多くの作品で、批判をすべき対象として描かれてはいるのですが、今作に限らず、最近の作品は、本質を深く掘り下げる事なく安易に、理想郷=滅ぼすべき悪の対象として描きすぎているのではないかと少し危惧をしています。

例えば、理想社会=洗脳という図式は、様々なSF作品で描かれていますが、殆どの作品で、主人公がそれに反抗する事はあっても、その社会その物が、滅びる事はありません。

何故なら、これらの映画に描かれる理想社会は、自分達の住む世界とは全く異なる別世界ではなく、現実の社会その物を暗喩しているからです。

自分達の暮らす社会に置き換えて考える必要のある事だからこそ、作品内でその社会は、滅びる事がなく、主人公にとって、消える事のない課題として残るのです。

しかし最近の映画では「理想郷は、その考えが間違えているので、社会その物を滅ぼして一件落着」という展開が、あまりにも多いように思います。

そこには「偽りの理想郷は、間違えた思想の上に成り立っている、この世に存在してはいけない物であり、自分達とは無縁の世界なのだ」という感覚があるように思われるのです。

映画を見た観客達も、その社会が自分達の社会を暗喩した物だという認識を持つ事なく「こんな社会は滅んで当然だ。それに比べて自分達の住む社会はなんて素晴らしいのだろう」という認識しか持たない事でしょう。

確かに自分達の住む社会を、素晴らしいと思う事は大切かも知れません。

しかし偽りの理想郷とは、本来、自分達の住む社会に存在している、様々な問題を認識させる為の装置であり、映画を見終えた後も、観客が身の回りの出来事に置き換えて、自分達の事として考える必要のある物なのです。

「あんな社会は、この世にあっていい訳がない、滅んで当然だよ」と決して他人ごとで済ましていい話ではないのです。

それを理解した上で、偽りの理想社会を描くのであれば、その内容には意義があるのかも知れませんが、その辺りをはき違えてしまうと「間違えた思想は、この世に存在してはならない。間違えている物は、滅びるべき」という部分だけが、子供達に伝わってしまうのではないかと、心配になるのです。

「間違えている事を否定するのは当然の話だろ。それの何がいけないんだ」と思われる人もいるかもしれませんが、戦争は必ずしも、悪意のある人間が悪意を持ってする訳ではなく、善意のある人間が善意の心で行う物でもありその根底には「間違えた思想を持つ社会は、この世に存在してはならない」という、正義の心が引き起こしている物でもあります。

それを言いだしたら、戦って悪の成敗をする作品が、何も描けなくなってしまうので、何でもかんでも戦うのはよくないというつもりはないのですが、少なくとも暴力で人を脅かす、わかりやすい悪人に対してはともかくとして社会理念等の、現実社会でも何が正解かはっきりと結論の出ていない物事に対しては、あまり善悪の概念で描かない方がいいようには思うのです。

自分達の住む世界の素晴らしさを肯定する為に、異なる思想を持った社会をわざわざ否定する必要はないのではないかと、思ってしまうのです。

「理想郷は確かに素晴らしい社会ではあるけれど、自分達は、自分の生まれ育った社会で、より良い社会を目指して、精一杯生きていくよ」という程度の展開で、十分だったのではないでしょうか?


同様の不満を感じている映画に、スタジオポノックの「メアリと魔女の花 」という作品があります。

この映画は、魔法学校に体験入学をした人間の少女が、物語の最後に「魔法なんかいらない」といって魔法世界の否定をするのですが、主人公にとって魔法がいらない物であるからといって、魔法世界その物を否定する必要は、なかったのではないかと、自分は思っています。

「主人公にとっていらない物=この世に存在する必要のない物」では決してないのです。
主人公にとって合わない社会でも、その社会の中で生きている人達は大勢いるのであり、自分の価値観、自分の住む世界の素晴らしさを肯定する為に、わざわざ他人が済む世界、他人の生き方の否定をする事はないのです。

もしかしたら「自分にとって魔法はいらない」という意味だったのかも知れませんが、自分が映画を見た印象としては、魔法の存在意義自体を否定していたように感じられた為、この作品にそうした違和感を抱いています。


理想郷とは少し趣向の異なる作品かも知れませんが、異世界を描いた物語で世界的に評価の高い宮崎駿監督作品の「千と千尋の神隠し」は、神様のもてなしをする油屋を舞台にしていますが、だからといってその場所を、決して理想的な社会として描いている訳ではありません。

経営者のユバーバは、双子の姉、従業員、ハク等多くの人達に疎まれておりそこを決して理想社会、正しい社会としては、描いていません。

しかしだからといってそこを、存在してはいけない社会として描いている訳でもなく、そんな社会であっても、そこに生きる人々は何かしらの生きがいを見出して暮らしており、主人公も又生きる力を身に着けていくのです。

「何が正しくて何が間違っているのかという事を断定しない曖昧さ、社会に対する寛容的な姿勢」こそが、この作品の魅力にもなっているのです。

だからといって、何でもなあなあであるべきだというつもりはありません。
改善すべき社会の問題には、はっきりとした主張をして、よりよい社会へと変えていくべきなのだと、自分も思っています。
ただ多くの映画作品に、もう少し多様な社会の在り方を許容できる寛容さがあってもいいのではないだろうかと、自分は思ってしまうのです。

少なくとも「偽りのユートピアが、世界のどこかに存在する事を許容できる程度の寛容さは、世の中に残っていて欲しい」と、考えてしまうのです。

※自分は映画の理想郷に共感しているのかというと、そんな事はないです。
好きになれない社会ではありますが、それがイコール、存在してはならない理由にならないだけです。自分達に自覚がなくとも、現実社会もそれなりに偽りの理想郷ではあるからです。
(いや自覚があるからこそ、多くの観客が、この映画に不快感を抱くのか)

本映画の理想郷は、世界中に伝承されている理想郷の元になっているという仮説がされてます。
その中には、天空の城も含まれているのですが、
「宮崎駿の映画でも、ラピュタを存在してはならない理想郷として、主人公が滅ぼしていただろ」というご指摘には、言い返す言葉もありません。

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