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(掌編小説)コーヒーゼリー

 あれは確か小学生の夏の日のことだ。学校から帰宅して冷たいお茶を飲もうといつものように冷蔵庫を開けると、見慣れないものに目が留まった。二つのグラスに入った黒い何か。それは当時のわたしには手が届かない最上段の奥まった所にひっそりと置かれていたこともあって、何か秘密のものを見つけてしまったと心が弾んだ。
「ねえ、修《おさむ》。あれ、何だろね?」
「冷蔵庫にあるから食べ物じゃないの?」
「でも真っ黒な食べ物なんてある?」
 そんなふうに三つ下の弟に言ったか言わなかったか。
 黒い何かはあからさまに隠しているということではなかった。けれど届かない位置に置かれているのだから、子供は触らないでね、という母の意志を感じる。両親は触ってほしくないものは高いところに置く。おそらくどこの家庭でも同じだろう。そしてまぁ、やはりどこの家庭でも親のいない隙を見計らって手を伸ばすのだ。
 ちょうど母は買い物にでも行っているのか不在だった。「おねえちゃん、どうするの」と心配そうに見守る弟の声を背に受けて、わたしはリビングから椅子をよいしょと運ぶ。最上段であろうが、台さえあれば余裕で届く。椅子の上で少し背伸びして二つあるグラスのうち一つを手に取ると、思っていた以上に冷たくて少し驚いた。手元に引き寄せると、ラップがかかったそのグラスに入ってるのは、液体ではなく固まった真っ黒い何かだった。今だとコーヒーゼリー以外の何物にも見えないのだろうけれど当時のわたしは、これはなんだろう、どんな味がするのだろう、と興味を惹かれていた。
 グラスをリビングのテーブルに持って行って、ラップを外す。鼻を近づけるけれど、特に匂いは感じなかった。期待した眼差しを向ける修にグラスを渡すと、真似をしてクンクンと匂ってみて不思議そうな顔をする。
「なにこれ? 食べられるの?」
「ゼリーだと思うんだけど……」
 修と顔を見合わせ、まずわたしがスプーンを握った。掬い取ってみると、黒いのだけれど少し透明感があって、ゼリーのようには見える。ただ、わたしの知ってるゼリーはもっとフルーツの色だったり中に果実がはいっていたりするものだった。
 ゆっくりと、恐る恐る口へと運ぶ。ひんやりとした舌触りで──。
「ニガイ」
 おそらく漫画だったら、目がバッテンになっていたことだろう。不味いとかはわからなくて、ただただ苦い。修にどうする、と表情で聞くと、ふるふると首を横に振った。賢明だ。
「あら、食べちゃったのね?」
「うわぁ!」
 背後から声がして、飛び上がりそうだった。いつの間にか母が帰ってきていたようで、わたしの手元にあるグラスを見つめている。勝手に食べて怒られるのかと少し身構えたが、母は笑って「美味しかった?」と聞いた。
「めっちゃ苦い。なにこれ?」
「コーヒーゼリーだよ」
「コーヒーってこんな味なの?」
 飲んだことは無いけれど、コーヒーはわかる。いつもお父さんとお母さんが飲んでるやつだ。確かに真っ黒な飲み物だった。
「大人の飲み物なのよ」
 ふふふ、とほほえみながらお母さんは冷蔵庫から何か取り出した。
「それはお父さんとお母さんのだから、あなた達はこっちをどうぞ」
「プリンだ!」
 母が出してきたのは、プリンだった。しかもプッチンとやらないタイプの美味しそうなやつで、なめらかなんちゃらと書かれている。コーヒーゼリーに気を取られて、冷蔵庫に入っているのに気づいていなかった。弟の修は喜んでプリンを受け取った。けれど、わたしは──。
「どうしたの、香菜《かな》。プリン食べないの?」
 わたしは美味しそうなプリンと食べかけのコーヒーゼリーを見比べた。黒い表面は、わたしのつけたスプーンの一匙分のへこみが出来ている。
「こっち食べる」
「残りは母さんが食べるからプリン食べたら良いよ」
「ううん、コーヒーゼリーにする」
 プリンは確かに美味しそうだし、こっちのゼリーは苦かった。別にお母さんも怒ってないし、ありがとうとプリンを手に取ればいいのに。わたしは意地を張っているのだろうか。
 母はわたしをじっと見つめて「まあ、いいか」と言うと再び冷蔵を開けた。
「じゃあ、これ掛けてあげるね」
 コーヒーゼリーの上に白い液体が注がれる。豆乳だった。陥没していた表面を、豆乳の水面が均していく。
「食べてみて」
 母の言葉に、わたしはスプーンでゼリーを掬った。ゼリーを少し少なめに、豆乳も一緒に掬うようにして、恐る恐る口に入れる。
「あ、甘い」
 確かにコーヒーの苦味は先程のようにあるのだけれど、調整豆乳の甘さが和らげていて、一緒に食べると甘い中にほんのりと苦味があり、ゼリーの固まった部分と豆乳の液体が混ざり合って、不思議な口当たりだった。
 これが、大人の味なんだろうか。そんなふうに思えて、なんだか可笑しかった。
 この後も、毎年夏になるとコーヒーゼリーが冷蔵庫のなかに作って置いてあることが幾度となくあった。そして、冷蔵庫の高い段の奥に冷やされている黒いゼリーの数は、あの夏からは三つになったのだ。

「やっぱり昔から食べるの好きなんだね」
 洗い終えた食器を水切りかごに置いていっていると、聡《さとし》くんが笑いを堪えるように言ってきた。
「いや、そういう話じゃないよ。聡くんがなんでコーヒーゼリーって聞くから」
 今度の週末に、わたしの実家に行くことになっていた。なにかお土産を持っていくものだよね、という話の流れでわたしがコーヒーゼリーをリクエストしたのだ。
 付き合い始めて二年になる聡くん。結婚しようと言葉にしてくれたのは、先月のことだった。お互いに結婚は意識していたと思うので、自然な会話の中だったけど、それでもやはり嬉しかった。この人と、ずっと暮らしていくんだなと。
 お互いの両親とも会わなければね、ということでまずはわたしの両親に挨拶に行くことになったのだ。
「やっぱり、娘さんをください、とか言うの?」とからかうと、少し照れてそっぽを向いていたっけ。実際はどうなんだろう。
「これなんかどう?」
 洗い物を終えて聡くんの前に座ると、スマホの画面を見せてくれた。コーヒーゼリーを調べてくれていたようで、画面には贈答用の少し高級そうなパッケージが並んでいる。
「うん、なんか良さそう」
 他にもいくつかの候補を見て、目ぼしいものを決める。聡くんが会社帰りに買いに行ってくれることになった。
「こういうちゃんとしたコーヒーゼリーって、どんな味なんだろうね」
「豆とかが違うのかな? 香りが良くて美味しいのかなぁ」
 わたしの知っている母のコーヒーゼリーは一緒に作ったこともあり、今ではレシピも知っている。と言ってもそんな大層なものではなく、インスタントコーヒーを少し濃い目に作ってゼラチンで固めるだけの簡単なものだ。コーヒー粉も特に銘柄のこだわりもなく、特価のものを詰め替えパックで渡り歩くスタイルだ。
 今度久しぶりに作って見ようかな。豆乳も買ってきて。
 そんな風に考えていると、聡くんの視線を感じた。
「ねぇ、香菜さん」
「どうしたのよ?」どきりとする。
 じっと見つめるようにして少し緊張した沈黙の後、聡くんはいたずらっぽく笑った。
「ちょっとコンビニにまで買い物に行こうよ。もう、コーヒーゼリーの口になっちゃって」
 どうやら話を聞いていて、コーヒーゼリーが食べたくなったようだ。今度作って、食べてもらおうと思ったけど、それまで待てないようだ。
「何よ、コーヒーゼリーの口って」
「僕の口がコーヒーゼリーを欲しているのです。ほら、香菜さんもそんな口してるよ」
 確かに、食べたい気がする。そっか。コーヒーゼリーの口してるんだ。
「行くなら駅前のスーパーにしよう。あっちのほうがラインナップが多いよ」
 自分で思っていたよりも明るい声が出た。聡くんも笑った。それでまたさらに楽しくなってくるのを自覚しながら、立ち上がる彼に続いた。
 
 完

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