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【緩和ケアはコミュニケーションの場~医者と患者と家族を繋ぐ大切な役割~】前半

☆interview☆
仲が悪くて喧嘩ばかりしている両親を見て育つことで、子どもはいったい何を思って過ごすのでしょうか?
家族が仲良くなるためにはどうすればいいのか?と考え、少しでも両親に迷惑をかけないように、自立出来る道を選ぶのではないでしょうか?
だから「人の役にたつ優秀な人間になる!」という思いでMさんが選んだのが看護師という仕事だったのではないかと思います。
緩和ケアは身体的問題・心理的問題など患者様の苦痛を積極的に和らげ、より良く生きるための医師と患者様とその家族の間を繋ぐ重要な役割であり、難しいけれどもコミュニケーション能力がとても大事だと思います。
不仲な両親を見て育ったことで「家族が仲良くなるために!」何とかしたくて、お手伝いをしたい気持ちが強かったのではないでしょうか。
子どもの頃から「心のケアがしたい!」と思っていた彼女だからこそ、緩和ケアの看護師を自ら選んでいったのだと思います。
人生を振り返りながら、彼女の歩んできた道、体験が同じような境遇の方やこれから看護医療現場に関わろうとしている方々に届けられたらと思い、インタビューさせて頂きました。

◆プロフィール◆
Mさん 
兵庫県在住 30代 【女性】
両親と兄と弟との5人家族。母の故郷である長崎県で小学校1年生から高校3年生まで育つ。高校卒業後に兵庫県の看護学校で学び、現在のお仕事である緩和ケアの看護師として活躍中。結婚後、22歳の時に女の子を産み、子どもが5歳の時にパートナーの両親と同居し、現在は義理の父と夫と娘の4人での生活中。
《インタビュアー:銘苅美都子 研究員 ライティング:加藤京子》


◆目次◆
~前半~
1 育ってきた環境はどうでしたか?
2 子どもの頃になりたかった仕事は何ですか?
3 緩和ケアとの出会いはどうでしたか?
4 どのようにして認定看護師の資格を取りましたか?

~後半 ~
5 無力感と恐怖の正体とは?
6 無力感がどんな影響を与えましたか?
7 緩和ケアの看護師として伝えたいことは何ですか?
8 自分を知ったことの喜びとは?

◆編集後記◆

1 育ってきた環境はどうでしたか?

私が幼少期を過ごしてきた環境、生い立ちをお話ししていきたいと思います。
私は両親と兄と弟の5人家族で、父が生まれた東京で小学校1年生まで暮らしていました。遊園地にも連れて行ってくれたり家族の面倒を見てくれた優しい父でした。
その後、母の故郷である長崎県に一家で移住することになりました。東京で育った父にとっては、長崎での生活になじむことができずに母に「東京に帰りたい!」と弱音を吐いたものの、受け入れてもらえず、次第にアルコールに依存するようになっていきました。

やがて、それまでの父とは違って暴言をはかれたり、叩かれたり、時には意味もわからず、何時間もの説教が続くことがあったり、私は家のなかで息をひそめて極度に緊張して過ごしていました。
母に助けてもらいたかったのですが、母は仕事で家にいないことが多くあり、とても心細かったです。

母は「お父さんが働かないので私が仕事をするしかない!」と言い、何も返す言葉がなかったことを覚えています。
私は母に遊んでもらったことがない…というよりも、一緒にいた記憶がなく、会話もあまりなかったように思います。
家でもこんな状況で苦しくもあり、寂しい時を過ごしていたのですが、小学校の時も中学の時も陰湿なイジメを受けたことがありました。ですが、あまり会話も元々なかったこともあり、親には迷惑もかけると思い、言うことができませんでした。
ですがその頃唯一、心の支えになっていたのが、中学校の担任の先生との交換日記のような、何を書いても良い《あしあと》と言うノートに自然とヘルプが出せたことで、すぐに先生がクラスで話し合いをしてくれました。

その話し合いが行われるまでは、陰湿ないじめを受けていても相談もできなければ、泣くことさえできなかったんです。
「泣いたら負けだ!学校で泣いたらだめだ!」と思っていました。
辛いことをようやく辛いと言え、やっと人前で泣くことができました。
泣いていた姿を見た、クラスのリーダー的な存在の男の子が気にかけてくれました。それからすぐにいじめは終わりました。
親に迷惑をかけてはいけない!自分さえ我慢すればいい!という思いが強くて、家でも学校でも辛かったことがありましたが、誰かに自分の思いを話せることで、楽になることが出来たのだと思います。

2 子どもの頃になりたかった仕事は何ですか?

子どもの頃から看護師になりたかったのか?と言えば実はそうではありませんでした。
その理由としては、5歳の時から小児喘息で夜に発作が起きるたびに苦しくて病院へよく通っていました。夜の病院は怖くて、看護師さんになるということは全く考えられませんでした。
ですが、人の役に立ちたいと考えていた私は、保健室の先生(養護教諭)としてカウンセラー的な人になりたくて、生徒の話を聞いたり、“心のケア”をできるような仕事がしたいとは思っていました。
金銭的に親の負担にならないようにとも考えて、自分の希望ではないけれど、高校も歩いていける近いところを選びました。
また、高校を卒業後に通った看護学校も高校を選んだ理由と同じく、学費がかからないので選びました。
地元から遠く離れた場所にはなってしまいましたが、親に負担をかけないですむという理由で選んだのです。

看護学校と病院、寮は近く、学校のお休みの時には、必ず病院の手伝いをするのが日課でした。
だけど遊んで遅く帰ったりすると、寮が病院の傍なので看護師の先輩から
「昨日は遅かったねー」と言われると、見張られていて嫌味を言われるのではないかなと感じてしまうことがあり、少し窮屈な思いをすることもありました。
ですが患者さんからはとっても可愛がっていただいていたので、病院のお仕事は大好きでした。
心のケアを中心とした仕事に就きたいという思いはあったものの、看護師の仕事の奥深さや素晴らしさに気づいていくことも沢山あり、スキルアップしたいし、人の生死に深く関わりたいという思いもありました。
この時でも、子どもの時からやりたいと思っていた“心のケア”を中心にやりたいことはまだ諦めきれていませんでした。

3 緩和ケアとの出会いはどうでしたか?

看護の仕事を頑張っていた私は、“緩和ケア”という考え方に出会いました。

それは「病気を看るのではなくて、その人を見る」というのが緩和ケアの考え方です。
心のケアを中心にやっていきたい!私にとってはとても興味深かったです。
看護の仕事は、様々な病棟でのお仕事があり、病状もさまざまで、いろいろな方がいらっしゃいます。
自分一人では何も出来なくなった患者さんもいらっしゃり、その姿を見て
「私が看護師として何か出来ることはないのか?」
「何か楽しめることはないのか?」
「今まで、この患者さん達はどんな生き方をしてきたのか?」
などと思いながら仕事をしていました。

そんな中、ある片麻痺(かたまひ)で看ていたおばあさんに、楽しんでできることは何かないのか、といつも思っていました。それを見つけるのも看護師の役割なんじゃないかなと思い、私は行動を起こしてみたのです。
ノートに「お元気ですか?」と書いて渡すと、書きにくいはずなのに一生懸命に毎日のように返事をくれるではありませんか!まるで、私が学生の時に救われた交換日記のように思いました。
そこから他の看護師の方も巻き込んでやり取りが活発になっていきました。嬉しそうに返事を書かれている姿を見て私自身も嬉しかったことを覚えています。
そんなやり取りを見ていた時にある先輩が、「それって緩和ケアじゃないの?」と声をかけてくれたのです。
当時は緩和ケアを学ぶ場所もあまりなく、自ら調べて緩和ケアで有名な病院に考え方を聞きにいきました。
緩和ケアの一番の考え方は「病気を看るのではなくて、その人を見る」ということでした。これが大前提であると聞いた時に「そういうことだったら極めたい」と感じたのです。

それが、私と緩和ケアとの出合いであり、子どもの頃から思っていた“心のケア”を中心としたお仕事が出来る、そんな現場で働きたいと思いました。

また、自分がもし、患者さんと同じ立場になった時には、「自分の人生の最期はこの人生で良かった!」と思って死にたいと思えたので、緩和ケアは非常に魅力的な仕事だと感じました。
ですが看護師としての経験が最低でも5年以上必要であること。
そして知識と人間力が必要であることも分かりました。
その時に勤めていた病院では、私が望む緩和ケアの仕事を充実させることはできないし、スキルUPも無理だと感じていました。

4 どのようにして認定看護師の資格を取りましたか?

緩和ケアを極めていきたかった私は
「この病院では認定看護師の資格をとることが無理なので辞めさせていただきます!」と伝えると、病院側から考えられないような提案がありました。
その提案は、緩和ケアにあまり取り組めていない病院からすると、ありえない話しでした。
「認定看護師の学校を受けていいよ」と言われたり、直属の上司でもない看護師長さんが、わざわざ時間を割いて教えてくれるなど、様々なサポートが入ることになりました。
認定看護師学校に受かる為に提出するレポートは、かなり大変でした。
看護師長さんのサポートがなければ認定看護師の合格は出来なかったと思います。
そして思い出したのですが、看護学校の卒論のテーマに選んだのが、「コミュニケーションについて」だったということです。看護師の仕事をするうえでコミュニケーションは絶対に必要だとずっと感じていたのだと思います。
それまでの人生を思い返してみると、両親の不仲や父親からのDV、そして、学校でのイジメを受けたり、過去のことですが様々な困難なことがありました。
困った時には、いつも誰かが目の前に現れて助けてくれていました。交換日記をしてくれた先生、クラスの男の子、看護師長さんなど、とてもありがたいご縁がありました。
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前半のしめくくり
看護師としての仕事につき、緩和ケアの考え方を知ったことで、コミュニケーションがいかに大事であるかを、実感するたびに“自分らしい看護とは何か?”に気づかれていったMさん。更にどんな体験が待ち受けていたのでしょうか。

後半へつづく
https://note.com/vast_eagle460/n/ne751d05d2c89


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