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文学作品と説明的文章との違いを考える   ――その2 場面と段落

 大学の授業で物語教材を扱っているときに、指示したわけではないのに段落番号を打つ学生が何人もいた。彼らが受けてきた文学作品(物語・小説)の授業では、段落番号を打つように指導されてきたのだ。一方、説明的文章に段落番号を打つように指示したにもかかわらず、打つことなく教材を読んでいる学生もいた。
 もちろん、物語・小説(以下では「物語」と記すこともあるが、「物語・小説」のと理解いただきたい)で段落番号を打っている学生と説明的文章で何もしない学生とは同じではない。指示の有無にかかわらず、段落番号を打つことは、より教材に向き合おうとする意味で積極的な行為とはいえる。しかし、物語の読解において、段落番号を打つことがほんとうに有効なのだろうか?
 私は、初めて物語で段落番号を打つのを見たわけではない。そのようなことをしている人を以前から知っているし、段落番号が書きこまれた教科書を見たこともあった。ただこれまでは、そのことを取り上げて真正面から批判しようとは思わなかった。「無駄なことをしているなあ」「私はそんなことはしないけどね」と冷めた目で見てきただけである。
 今回「文学作品と説明的文章との違いを考える」というタイトルにしたことで、この問題を改めて考えてみようと思う。
 結論を先に述べる。私は、文学作品(物語・小説)では段落番号を打つことは不要と考える。段落に代わって、文学作品の構成・構造をとらえる際には場面が基本の単位になる。一方、説明的文章においては段落番号を打つことが有効と考える。段落が文章構成をとらえるための基本の単位となり、段落相互の関係をとらえる上にでも役に立つからである。

 物語で段落番号を打つのは教師の自己満足

 これまでも物語で段落番号を打つ場面を何度も目撃してきたのだが、その有効性を述べたものに出会ったことはない。改めてネットで検索もしてみたが、見当たらなかった。
 ではなぜ段落番号を打つような指導がなされるのか?
 それは、段落番号を打つことで、文章を分析的に読み取っている気になれるからではないだろうか。段落番号を打っただけでは、物語を読んだことにはならないし、それだけで何かが明らかになるものでもない。しかし、物語で段落番号を打つ作業は、それなりに面倒であり、時間もかかる。それだけに、子どもは段落番号を打っただけで一仕事終えたような感じになるし、教師も何か指導したような気持ちになる。
 実は、国語で何を教えたらよいかが分かっていない教師はかなり多い。そのような教師にとって、段落番号を打つだけでも指導したような気持ちになる。その番号に基づいて「今日は50段落から読みましょう」「75段落を見てください」などとやれば、それだけで読解の授業をしているような気持ちになる。しかし、段落番号を打つこと自体は目的ではない。「75段落を見てください」という指示は「○○ページ▲行目」といえば済むことである。段落番号を打った効果といえるほどのものではない。 

段落とは何か?

 ここで、段落とは何かを確認しておこう。
 辞書『明鏡』には次のようにある。 

「段落」 長い文章を意味のまとまりなどによって分けた一区切り。また、形式的に文頭を一字下げて書きはじめる一区切り。

  ネットのとあるサイトでは、以下のように説明していた。 

・段落は「意味のまとまり」のこと。
・「形式段落」と「意味段落」に分けられる。
・形式段落:1マス下がっているところで、形式的に分けられる段落。
・意味段落:意味によってまとまりを作っている段落。 

  両者に共通しているのは段落を「意味のまとまり」としている点である。私もその意味で理解してよいと考える。
 ついでに、形式段落・意味段落と段落を二重の意味で使用することに私は反対である。段落は形式段落の意味だけで用いるべきである。そうすることで、段落の意味が明確になり、子どもたちも混乱しない。 

物語での段落番号の無意味さ

 それでは、物語においてなぜ段落番号が有効ではないのか述べていこう。
 物語における段落は、必ずしも「意味のまとまり」となっていないのである。「YAHOO!知恵袋」に「国語 段落番号について」として次のような質問があった。 

段落番号をつけるとき、会話ときの「かっこ」は”一段落”になりますか?
先生によって異なるので(^^;)質問させていただきました。

 この質問から以下の二点が明らかになる。
 ① 会話文は、一段落と認識されることがある。
 ② 教師によって、一段落の認識が異なっていることがある。
 言うまでもなく会話文が頻出するのは物語である。したがって上記の質問は、物語文における段落番号に関わっての質問と考えてよいだろう。以下は、新美南吉の『ごんぎつね』の一節だが、もし段落番号を打つようにと言われたら、あなたはどう打つだろうか? 

「そうそう、なあ、加助。」
と、兵十が言いました。
「ああん。」
「おれあ、このごろ、とても不思議なことがあるんだ。」
「何が。」
「おっかあが死んでからは、だれだか知らんが、おれにくりや松たけなんかを、毎日毎日くれるんだよ。」
「ふうん、だれが。」
「それが分からんのだよ。おれの知らんうちに、おいていくんだ。」
 ごんは、二人の後をつけていきました。
「ほんとかい。」
「ほんとだとも。うそと思うなら、あした見に来いよ。そのくりを見せてやるよ。」
「へえ、変なこともあるもんだなあ。」
 それなり、二人はだまって歩いていきました。

  会話を一段落、「ごんは、二人の後をつけていきました。」「それなり、二人はだまって歩いていきました。」という地の文も一字下げしているのだから一段落とするならば、ここだけで少なくとも12段落になる。
 この場合、会話という形式で分けているのだから「意味のまとまり」とはいえない。またこの場面を読んで、私たちは12の「意味のまとまり」があるとは思わないだろう。
 物語における段落は必ずしも「意味のまとまり」とは言えない。物語の段落と説明的文章の段落とは、全く質が異なるのである。
 また物語の場合、段落番号を打つとその数がとても多くなる。小学校高学年なら100段落を超えるような作品も珍しくない。100までいかなくても70,80といった段落数になるのが普通である。小学1年もしくは2年の教材『スイミー』(レオ=レオニ)で数えてみたら27段落あった。段落の数が多いことは、段落番号が有効に機能しないことを暗示している。
 段落の数を数えるために番号を打つのではない。段落番号は、全体の組み立てをつかむために打つのである。どこからどこまでが、どのような役割になっているか。段落相互がどのような関係性を持っているかを、段落番号を打つことをもとに考えるのである。しかし、段落数が多くなれば、当然のこととして段落の役割や関係性はつかみにくくなる。
 また、先の『ごんぎつね』の例でも分かるように、物語では一行一文の段落も多い。それゆえ、段落相互の関係をとらえることは煩雑なだけで、実質的には意味をなさない。また、物語の段落番号を使って段落の役割や相互の関係性を考えさせている人はいないであろう。つまり、段落が物語の分析の単位として有効に機能しないのである。
 分析の単位として機能しないにも関わらず、わざわざ時間をかけて段落番号を打たせることに意味はない。まして、どこまでを一段落にするかが教師によっても異なる場合も多い物語では、どこを何段落にするかの指示を丁寧に行わなくてはならない。それだけの手間暇をかける意味がどこにあるのか。ムダな作業でしかない。
 それに対して説明的文章においては、段落が有効に機能する。もともと説明的文章では段落数も少ないし、何よりも「意味のまとまり」として段落が記述されている。
 したがって「はじめ―なか―おわり」といった三部構成をとらえることも段落を基本単位として考えればよい。段落の役割や相互の関係も考えることができる。 

物語は、場面を基本単位とする

 場面は、時・場・人物の三つの要素によって構成される内容のひとまとまりである。小学校教材では、あらかじめ行アキなどでいくつかの場面に分けられている作品も多い。また、分けられていなくても、時や場所の変化、さらには人物の出入りなどを手掛かりにして、いくつかに場面を分ける作業を最初に行うことが重要である。
 そして場面を分けることを通して、その物語のあらすじをつかむのである。加えて、場面の構成を考えることから、作品全体が何を描いているか、どのような組み立てになっているかを考えることができる。場面が読解の基本単位となるのである。
 ここで注意しておかなければならないことは、作品によっては場面分けが一致しないことがあるという点である。
 先生が分けた場面と、子どもたちが分けた場面とが違っていたという経験は、多くの人にあるだろう。行空きなどがあれば、どこで分けるかに悩む必要はない。しかし、すべての作品がそうなっているわけではない。
 それゆえ、場面分けでは以下の点に注意が必要となる。
 場面分けには、誰が分けても一致する箇所と、人によって分けるところが異なるものの二つがある。その見分けを教師がしっかりとしておかないと、授業で子どもを混乱させる。
 誰が分けても一致する所というのは、時・場・人物での転換が明確な箇所である。「ここから次の日のことが語られている」「ここからかえるくんの家に場所が変わっている」「ここから孫が加わっている」といったように場面転換がはっきりと示されているところは、分ける時に混乱しない。分ける理由も分かりやすく、子どもたちも納得する。
 一方、時間的に連続し、場所も変わらず、人物の入れ替わりもない場面が長く続いている場合、どこで分けるかが難しくなり、分け方が一致しない。もともと連続する一場面であるから分けられないといえばそうなのだが、授業で扱う場合には一つの場面をある程度の長さにすることが求められる。そこで分けようとすると、教師の意見と子どもたちの意見が食い違うことになる。もともと分けづらいところで分けているのだから、当然といえば当然のことである。このようなところは、子どもに分けさせるのではなく、教師がどこで分けるかを指示すればよいのである。
 また次のような箇所も場面分けでもめるところである。『はりねずみと金貨』(東京書籍小学3年)のという作品で、金貨を拾ったはりねずみがほしきのこを探している場面である。 

そうしてずいぶんあちこちさがしたのですが、ほしきのこはどこにも売っていません。
(せっかく金貨があるのに、きのこのほうが見つからんとはのう……。)
 そのとき、木のうろからりすが顔を出しました。
「こんにちは、おじいさん。~ 以下略」

 りすという新たな人物が登場することで場面が転換すると考えれば、「そのとき~」からである。しかし、「そのとき」の「その」は(せっかく金貨があるのに~)という心の中でのつぶやきを指しているのだから、(せっかく金貨があるのに~)から場面が変わると考える意見も出てくる。
 このような場合、どちらがよいかを子どもたちに議論させても、決着はつかない。おおよそこの辺りで、場面が変わるということさえ理解できれば、どちらかは教師が決めてしまえばよい。
 場面分けで授業が混乱するのは、明確に分けることができる箇所と混乱する箇所とを教師がしっかりと見分けないままに、子どもたちに場面分けをさせることに起因する。
 また、いくつに場面分けするかという数も重要である。
 場面分けには、優先順位がある。まずは時。時が大きく隔たっている場合は、その前後で分けなくてはいけない。時が同じ場合は、場(所)である。そして最後が人物の入れ替わりである。
 三つに場面分けしたとしても、時で分けた個所と場所で分けた個所があるとすれば、その作品は時という基準では大きく二つに分けられることになる。 

まとめ

 物語・小説では、場面を基本の単位として作品を分析していく。一方、説明的文章では、段落番号を打ち、段落を分析の基本単位とするのである。
 文学作品における段落と説明的文章における段落は、本質的に異なっているのである。国語教師はそのことをしっかりとわかっていなくてはならない。

 


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