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いつか忘れてしまう

 今夜はほうじ茶を淹れた。キャビネットから銀の茶筒を取り出して蓋を開けると、芳ばしい香りがぱあっと広がる。旅先で買い求めた茶葉である。もう残り少なくなって、そうして最後には無くなって、いずれ、旅の思い出も薄れていくのだろう。あれは山里の宿坊だった…

 『残りの雪』をオーディブルで聴き終えた。確か20年ほど前に一度読んでいる。当時の感想としてはあまり否定的ではなかった記憶があるが、今回は、登場する男も女も各々滑稽で物哀しく見え、その恋愛模様がただ虚しく思えた。

 一方で舞台となる鎌倉の、四季の移ろいの描写はやはり美しい。名刹も多々描かれており、住職との会話にも深みがあって良い。着物を着て湘南電車に乗って箱根や小田原に出かける様子も、風情があって楽しい。また、立原正秋が骨董や能楽に関して造詣が深いことは言うまでもないが、女性の着物についても知り尽くしているようで、場面ごとにその格や色柄まで詳細に記されているのには改めて驚いた。

 最も印象に残ったのは、坂西が里子を伴ってタクシーを走らせ鎌倉の腰越に降り立つくだりで、里子の「腰越に何があるんですの」という問いに「海がある」と一言だけ坂西が答える。状況が複雑化する渦中、心を整えるために海に来たのだ。(と、私には読めた)

 このくだりを読みながら、私自身かつて何度も訪れた腰越の漁港、防波堤に立って沖からのうねりを眺めていた、いつかの情景を思い出していた。

 確かに、そこに海があるだけなのである。

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