見出し画像

黄金と玻璃

 夕方、仕事を片付け急いで法務局に向かう。ブラッドオレンジに染まる西の空、黄金色の光線が伸びて、色づいた銀杏並木を照らす。秋の真ん中のこの日だけのこの時間だけのこのいっとき、ひとりで落ち葉を踏みしめながら歩いても、何も思い出すことはない。嫌いな作家が、悲しみに甘えるな、と言っていた。嫌いな作家の言うことは嫌いだ。

 風が舞い、落ち葉が舞う。金曜日。行き交う人々は急ぎ足で笑っていた。用事を済ませ、局舎を出るころにはすっかり陽が落ちていた。

 ヴァージニア・ウルフの短編集を読んでいる。『ラピンとラピノヴァ』は新婚生活という野生のフィールドでウサギの王と女王に化けて駆け回るアーネストとロザリンドの話…ハーパーズ・バザー1939年4月号に初掲載された掌編。吸い込まれたのは金婚式のパーティーの描写で、すべてが金色で、黄色いサテンのドレス、黄色のカーネーション、金の燭台、金の煙草入れ、金の鎖、金の砂箱、赤や金の花弁を持つ菊のひとむら、金の花文字のイニシャルが記された金縁のカード、澄んだ金色のスープ、常夜灯に照らされた靄は目の粗い金色の織物のよう...金の食器、金色にぎらつくパイナップルの表面、たくさん子供を産む一族、金色のテーブル、野放図に成長した金雀枝の茂みの野。いいえ、私は幸せではないと、ロザリンドは心のなかでつぶやく。

 湿った感情より、なにか玻璃のように固く冷たいものがいい。

 ラピン、ラパンといえば、もう記憶も薄れかけているが、昔、新宿御苑のみごとな葉桜を見下ろすこじんまりとした総ガラスのレストランで、ウサギの煮込み料理を食した。その人は、長身で瘦身で、指が細く長く、言葉の少ない、優しいのか酷薄なのかわからない、けれど情熱的といっていいかもしれない、しかし、決定的に弱い男だった。ウサギを食べていたけれど、自身がウサギのような人だった。私は、翌月、紗の季節に結納式を執り行った。その人には、何も告げなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?