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春にして

『春にして君を離れ』というアガサ・クリスティーの小説がある。彼女の作品の中でも、本格ミステリー以外でとても人気のある作品かと思う。最近オーディブルで聞いたのを機に、本棚の奥から取り出して文庫の方も読み直してみた。

 自信満々で独善の極みにある中流階級気取りの主婦の話である。舞台は第二次世界大戦勃発直前のイギリス、そして主人公の旅先であるテルアブハミド。おおっぴらに帝国主義の時代なのだろう、主人公のジョン・スカダモアは田舎弁護士の妻でありながら、差別意識に満ち溢れている。
 メインテーマは、ジョンがクローズドサークル(天候要因で旅先の砂漠に長逗留を余儀なくされる)の中で悟り始めた自省のゆくえ、とも言えるだろうか。文庫のあとがきを見ると、有名作家が「恐ろしくて、哀しい」話だと繰り返し書いている。しかし、私は恐ろしいとか怖いというよりは、むしろ、よくある話だと思った。自分にも思い当たるし、程度の差こそあれ身の回りにいる大勢の「poor little John」が頭に思い浮かんだ。

 誰しも自分のことを100%メタな視線で捉えるのは無理だと、私は思う。自分以外の人々に自分がどう思われているかなんて、完全に理解することは永遠にできないであろう。どんなに他者の立場に立とうと努力しても、所詮他人の気持ちはわからない。せいぜい分かったつもりになれるだけ。人間関係の中では、子どもでさえ相手を慮って、完全な真実を伝えることはないのだから。だがしかし、なにかが破裂したときに、パンドラの匣が開け放たれるように、真実がさらけだされる。

 自分の経験を例に取れば、息子が大学進学時に私に告げた言葉に、どれだけ狼狽したことだろう。また、ある人が自分のことをどれだけ嫌っていたか、ある日突然気付いたこともある。10年以上も無自覚でいたのだ。

 また周りをみれば、本人が自覚しているかしていないか分からないが、男も女もジョン・スカダモアの類似型だらけである。そうしてみると、アガサ・クリスティーは、人間というどうしようもない存在への理解と人間観察に非常にすぐれた眼を持ち、具体的な細かさで心理描写ができる稀有な作家なのだと思った。ジョンが年齢に不相応な美貌の持ち主であることも示唆的である。本作は、Culpritが「ジョンが独善的であること」だとすれば、あちこちに散りばめられた手がかりをもとに、読者はとっくに真相が分かっていて、ミステリであれば探偵の役割である主人公ジョンが真相に辿り着けるかどうかを見守りながら読み進める、という娯楽小説とも言えるかもしれない。シェークスピアのソネットがモチーフとなっているのも、いかにもクリスティらしい。

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